キリストの影響

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
キリストの人生を見る

イエス・キリスト:人生と使命

このイエス・キリストについてのウェブサイトで、イエス・キリストが実にどのようなお方であられるかの投稿を見つけることができるでしょう。イエス・キリストは、古代と現代において御自身を明らかにされました。キリストはこの世の救い主、神の御子、神の右手に座する者です。わたしたち一人一人をご存知で、わたしたちの人生に個人的に関わっておられます。私たちは、イエスがあなたの個人的な仲介者であられることを知ることができますよう願っています。イエス・キリストは、わたしたち一人一人を贖い、天父の御前でわたしたちのために嘆願され、主の恵みと力を通して、わたしたちの日々の生活でとりなしてくださる御方です。

このイエス・キリストについてのウェブサイトChrist.orgは、救い主イエス・キリストがどなたであり、イエスがどのようにあなたの人生に影響を与えたかについて、人々と話し合う場所を提供し、イエスについてまたはイエスの生涯、御業、贖いの犠牲や復活の現実性について、疑問がある人々に手を差し伸べることを目的としています。誠実に真理を探求している方、イエス・キリストに従う人々からの思慮深い質問をお待ちしています。

Jesus.Christ.orgのサイトは、イエス・キリストについてモルモン教ではどのように信じているか疑問を持つ人にも、またキリスト教徒ではない方々を含む、いかなる信仰をお持ちの友人や家族にも紹介することができます。

人の話を聞かないわたしが、耳を傾けた理由

人の話を聞かないわたしが、耳を傾けた理由

中学でも県大会などで成績を残していたわたしは、高校もスポーツ推薦。高校に入ってコーチの話を全然聞かなかった。自分で練習も組めると思っていたし、記録も伸びていた。高校3年生の夏、わたしは校則違反をし、出場停止となった。バカなことをしたなと思っていた。その時、コーチが思いがけない行動に出たのだ。

両親が神様の愛を再び感じられた姉の死についての特別な促し

両親が神様の愛を再び感じられた姉の死についての特別な促し

姉の死は突然来ました。2歳だった姉は兄とソリ遊びをしてた時に、事故で亡くなったのです。あまりにも急な悲劇で、家族は状況を理解できないでいました。しかし、この不幸な知らせを祖父は「分かっていた」のです。神殿で家族の誰かが亡くなるという促しを前日に受けていたのです。

イエス様も涙を流されたのですからわたしだって泣いてもいいんです:いつでも幸せでいなくてはならない訳ではないのです。

イエス様も涙を流されたのですからわたしだって泣いてもいいんです:いつでも幸せでいなくてはならない訳ではないのです。

わたしの夫は28歳でがんの診断を受けました。モルモンは一般的に働き者で、ボランティア精神が高く、いつも元気で笑顔と言われています。モルモンのわたしは、自分が泣きじゃくり、悲しんでいることに罪悪感を感じました。でも、ある日気づいたのです。イエス様も泣かれたことを。

間違った方に幸せを求めていませんか

間違った方に幸せを求めていませんか

友人夫婦とコンサートに行ったときに、長蛇の列で入場にしばらくかかりました。というか、待って待ってやっと入り口にたどり着いたら、間違った入り口だったのです。わたしたちのコンサートの入り口は迎えの全く列ができていない入り口だったのです。人生にもよくこんなことがあります。

来世に期待?!来世と赦しの関係

来世に期待?!来世と赦しの関係

なかなか赦せない人がいて、その人の来世に期待して、来世で良くなったら赦せばいいやと思っていませんか?今、赦していない人に来世であっても気まずいままです。そして、今赦せないなら、それは来世に行けばもっと赦し難くなります。来世にいくわたしたちの心は同じ心です。

節目の年:33歳から34歳へ

節目の年:33歳から34歳へ

わたしは今33歳ですが、もうすぐ34歳になります。クリスチャンのわたしにとって33歳から34歳になる年は人生の節目となる特別な時期です。それは、イエス・キリストが地上での使命を終え、十字架に架けられた歳だからです。そんな33歳のわたしに現れた数々のビジネスチャンス!しかし祈りの答えはどれも「ノー?!」

赦しは被害者を清めるもの

赦しは被害者を清めるもの

腹の立つ男性が下の階に住んでいて、ついにわたしが「もう一生赦さない!」と言ったら、彼は笑って言いました。「君は僕を赦すよ。だって、赦さないと天国に行けないからね。」人を赦す行為はその人の悪い行いを承認するのではありません。その人の裁きはわたしではなく神様が行うのです。赦しはわたしを清めるために存在するのです。