「ここに、12年間も長血をわずらってい…た女がうしろから近寄って未ころものふさにさわったところ、その長血がたちまち止まってしまった。」(ルカによる福音書8章43,44節)
わたしはしっかりと目が覚めた状態で、眠ることができないまま暗闇のなかで横になっていました。絶望に息がつまりました。暴力的な思考は悪化するばかりでした。わたしは、自分が感情のカオスと、わたしを招き寄せる最終的な忘却の状態に身を任せそうになるのを感じました。救われることなんてありえないと思ったのです。
夫の助けが必要なのはわかっていました。夫はとても眠りの浅い人で、わたしが呼びかけるとすぐに返事をしました。
そしてわたしは、言葉にすることはないだろうと思っていたようなことをつぶやいたのです。「助けて。死にたいの。」彼は飛び起きてライトをつけ、そしてわたしの方に向き直ってわたしの顔をみて言いました。「なんだって?」
わたしたちが結婚したのはずっと前でした。彼はわたしを地球上の誰よりもよく知っていましたし、誰よりも愛してくれていました。しかし彼は、わたしが戦っていた暗闇の深さは知りませんでした。そしてわたしはその戦いに疲れ切っていました。それについて彼に話をしてこなかったのは、彼が支えてくれないだろうと思ったからではなく、言葉にするのが恐ろしかったからでした。
わたしの自殺パラドックス
わたしは完全に一致しないパラドックスを感じていました。わたしは意思も強く気持ちもタフなのに、その暗闇を振り払うことができずにいました。キリストと主の計画に大きな信仰を持っていましたが、同時に自分自身が大嫌いでした。わたしは永遠を信じていましたが、現在に絶望し、過去は無駄なものだと感じました。愛も信じていましたが、わたしの目にうつるのは暴力だけでした。
信仰によりわたしが得たのは、死は私が存在し、次のステージに進むために必要不可欠であるという固い信条でした。それは優しい解放のしらせでした。
わたしの場合、「死」という簡単な安らぎはいつも良いことというわけではありませんでした。わたしは自分が死んでいくようすを何千回も、何千通りも思い浮かべました。
やるべきとわかっていることはすべてやりました。何年も前始めて暗闇にのまれたとき、わたしはカウンセリングを受け始め、その暗闇がわたしを飲み尽くしてしまう前に必要なスキルと道具を得ました。毎日聖典を読み、毎日祈りました。少なくとも一週間に一度は神殿に参入しましたし、教会にも行き、教会の召しも果たしました。家庭訪問もして、雨でも晴れでも渓谷を一緒に散歩してくれるような友人も見つけました。
わたしはいじめられていたわけでも、迫害されたわけでもありません。経済的に苦しい状況にいたわけでもなければ、結婚関係に悩んでいたわけでもなく、結婚関係はむしろ強く良好でした。わたしたちの人生は幸せで、わたしの家族と神との関係は現実的かつ実体的なものでした。仕事も充実していましたし、友人の多くは享受することのできなかった自由をわたしは手にしていました。
しかしときどき、わたしの人生の飛行機が高度1万メートルでばらばらになり、わたしは真っ青になりながら、ものすごい力が、わたしのつかまっているストラップからわたしを引き剥がそうとするなか、必死にしがみついているような気持ちを繰り返し感じました。
そういった暗闇の期間、壊滅的な力がわたしに対しての戦争を起こすなかで、わたしは人生にしがみつきました。毎日、わたしは笑い、冗談を言いながらブラックホールに飲み込まれそうになる気持ちと必死に戦いました。
特に今回は、わたしは感情的にも健康ではありませんでした。論理的な自分自身が感情的な自分との接し方がわからずもがいていました。
その戦いは激しく、わたしにはどちらが勝つか全くわかりませんでしたし、どちらでもいいやと投げやりになるところまできていました。
悪魔の声がすべて終わらせてしまえとわたしに叫ぶときはだいたい、わたしは座って、人生における神の恵みを日記に書いたり、他の場所で神を感じたりします。聖典や祈り、神殿などがそれらの場所です。彼はわたしをつなぎとめる唯一のものです。神の愛と慈しみが、わたしの人生を満たすのです。
しかしその夜、横になって息が詰まりそうな思いをしながら、わたしはその方法ではこの苦しみから逃れるには足りないということがわかりました。
夫が神権の祝福をしてくれました。彼はわたしを理解しようとたくさんの質問をしました。彼は神権を使って家を奉献しました。そしてわたしたちは一緒にもう一度祈りました。
話をすることは、わたしの感じている痛みにラベルを貼る役にたちました。いくつかの身体的、また感情的な問題のルーツが現れる中で、ホルモンバランスの乱れのきっかけとなった流産がわたしのうつの原因であることに気が付きました。流産を経験したのは最近ではありませんが、それはいちばんつらかった流産からちょうど一年目の出来事でした。
わたしの人生の目的のすべては母親になることに向けられていて、それなくしては人生の意味を見つけられずにいたのです。わたしの心の一番深い部分が、裏切られ、壊されたように感じていました。ホルモンバランスの乱れから始まったうつ状態によって大きくなったそれらの感情は、火山のように自己嫌悪と絶望、そして暴力の噴火を起こしたのです。
わたしたちは、わたしが眠れるまで話をしました。わたしはまた一日、生きました。
次の朝、わたしはおかしな気分でした。一皮むけたような、すべてのエネルギーの動きにとても敏感になっている気分でした。とても脆弱で、すべての守りを取り払われたような気持ちでした。
「そして、わたしたちが意気消沈して、まさに引き返そうとしたときに、見よ、主はわたしたちを慰め、『…忍耐して苦難に耐えなさい。そうすれば、あなたがたに成功を得させよう。』と言われた。」
神の慈しみ:見つけることさえできれば
わたしは教会にいく準備をしました。贖いの癒やしと、聖餐をとるたびに感じる否定しようのない可能性の力は、今までに十分感じてきていました。聖餐をとるという行為は、文字通りわたしが「我を忘れた」状態に沈みこむのを防いでくれました。その行為から、わたしは正気と不安定な状態の間に橋のようなつながりを得ることができました。聖餐は、常に暗闇の覆いを取り払い、光を招き入れてくれました。
その日、主はわたしに必要な言葉を話すために何人かの人を導いてくれました。その一人は、愛と感謝を言葉にしたひとりの子供でした。もう一人はある女性で、彼女はわたしがしっかりと明確な目的をもって召しを果たしたこと、それによって良い影響を受けた人がたくさんいることを知っておいてほしいと言いました。
その夜、わたしたちは家族のパーティーに参加しました。わたしはうまく体裁をつくろえていると思いましたが、妹たちの一人はわたしを観察し続け、最終的にキッチンのすみにわたしを追いやって「本当は」元気なのかと聞いてきました。わたしの防御壁は取り払われ、わたしは自分の苦悩を彼女に向かって吐露しました。
わたしは一番上の姉で、わたしの人生は家族には筒抜けでしたが、「いつも兄弟たちの模範でいるように」常に気をつけていたことから、こういった絶望的な苦悩について家族に話したことはありませんでした。妹はわっと泣き出し、わたしに対する愛を示したあと、彼女が理解できるようにいくつか質問をしてきました。ほかにも二人の妹たちが、騒がしく陽気な中でのわたしたちの内緒話に気が付き、わたしのところにやってきました。
妹は、わたしが感じている気持ちはわたし自身ではなく、わたしを定義するものでもないと言いました。そしてそれらの試練の中を切り抜け続けるというわたしの決断は、勇気と神にあっての強さがましていることを示していると言いました。その会話は思いやりと希望、誠意と愛に満ちていました。
それらの人々から、わたしは主がわたしに語りかけるのを聞きました。彼は、わたしが許しさえすれば、わたしの人生はすべての意味と価値を持つことができるとわたしに伝えました。
彼はわたしを機内に引き戻しました。そして彼はわたしの飛行機を溶接して直しました。わたしは消耗していましたが、今までよりも力を感じました。
数週間後、わたしはもうひとつの召しを受けました。聖任される中で、わたしは「あなたの明るい聖霊が周囲の人に良い影響を与え、あなたが聖約を守る限りすべての疑問は答えられるでしょう」という約束を受けました。それからわたしは、より具体的な疑問に関する答えを探し始めました。
光への渇望
20年前、わたしは友人が聖餐会で分かち合ったエズラ・タフト・ベンソンの言葉の引用を聖典に書きました。「ときにわたしたちは、義にしがみつき、抑えつけるような霊を持つ悪がわたしたちから去るまでとにかく待たなければならないこともあります。たとえ落胆やうつに取り巻かれていようとも、その高潔な努力を続けることは、あなたを日の光のもとへと引き出してくれるでしょう。」
わたしは光を渇望していました。わたしたちは洞窟のような暗いアパートから引っ越しました。わたしは物事を簡潔化し、積極的にやるべきことリストに取り組むことで、自信と目的を取り戻しました。同時に、ホルモンセラピーも続けました。そして以前していた良いことを続けて行うようにしました。
「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らしてくださったのである。…わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。…倒されても滅びない。…なぜなら、このしばらくの軽い艱難は働いて、永遠の思い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(コリント人への第二の手紙4章6,8,9,17節)
半年後、わたしは妊娠しました。わたしの誕生日には夫は他の州で働いていましたが、それでもその日は美しく輝いていました。しかしわたしの犬は柄にもなくわたしにべったりで注意を向けて欲しがっていました。
突然、以前感じたことのある痛みが体中を走りました。わたしはまた子供を亡くしたのです。
自殺の「理屈」と戦う
それから2日の間、良心との戦いとしか表現しようのない方法で、闇は津波のようにわたしをうちのめし、海の深みへと引きずり込みました。
自動操縦スイッチを入れ、起き上がる。水底で息をしようとあらがっては、水底に引き戻される。仕事へ行く。うねる大波に飲まれそうになりながら息をしようとあらがっては、波の中に引き戻される。家に帰る。どうにかその日も夜を生き抜く。その繰り返しでした。
わたしは、職場である女性が「娘の親友が二人のこどもと夫を残して自殺した」という話をするまでは自分自身の危機に気がついていませんでした。
わたしの最初の反応は、「本当に?本当に今のわたしにこの話をしてるの?」でしたが、わたしはこう言いました。「悲しいことですね。彼女はどんな痛みを感じていたんでしょう。」心を痛めていたそのわたしの友人は、その女性が、自殺願望を増長させる副作用をもつような薬を服用していて、家族は彼女がその薬のせいで命をたったのだと思っていると説明しました。
わたしが絶望しているときに限って人々が話す自殺についての話には、いつも驚かされます。以前、そういった話は残された人々の反応や苦しみに気づかせてくれました。そういった話はわたしに希望を与え、いつもどうにかそうしてきたように、今回もどうにか乗り越えられると感じさせてくれました。
しかし今回は違いました。今回は、わたしはものすごい怒りを感じたのです。わたしは、自分はいまでもこんな拷問を受けているのに、彼女はそれから逃れる道を見つけたことに怒りを感じていました。
もう十分でした。
家に帰ろうと電車に乗った時、わたしの気持ちは良い場所にはいませんでした。わたしは電車の先端に来ました。絶望と怒り、自己嫌悪、目的の喪失感などがわたしのなかで渦巻いて、車のフロントガラスで潰された虫のような気持ちでした。暗い部屋で、何千もの怒りと悪意に満ちた声がわたしを怒鳴りつけ、なじり、憎むのを聞きながら立ち尽くしているようでした。
そのとき、信じられないことに、電車が壊れて止まったのです!
わたしは、日記と電話と一緒に閉じ込められてしまいました。当然、自分の気持ちと向き合ったり、だれかに話したりする気にはなれず、麻痺した心で、空を見つめながら、Facebookを眺めはじめました。
「あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。水がわたしをめぐって魂にまでおよび、淵はわたしを取り囲み、海藻は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった。…わが魂がわたしのうちに弱っている時、わたしは主を覚え(る。)」(ヨナ書2章3,5,6,7節)
主が与えてくださるライフライン
わたしは、救い主はわたしたちが必要とするとき、特に逆境のときにはいつもわたしたちを訪れると信じています。しかし、わたしたちは彼を見たり、感じたり、彼の手が働いていることに気がついたり、彼がわたしたちに手を延べてくれていることには気が付かないかもしれません。
驚くべきことに、わたしの中で暴力がエスカレートし、なんとなく眺めていたFacebookで、大波のうねる暗闇にひとすじの光がさしたのです。もう少しで見逃すところでした。
しかしわたしの目は、ジョエル・オスティーンの言葉を引用した画像に集中していました。「わたしたちが最初に戦いに負ける場所はわたしたちの頭の中です。もしそれが永久だとあなたが思えば、それは永久で、もしあなたが限界だと思えば、それは限界です。あなたが二度と元気にはなれないと思えば、あなたは二度と元気にはならないでしょう、考え方を変えなければいけないのです。わたしたちはすべての逆境、すべての限界、そしてわたしたちを押さえつけているものをすべて、一時的なものとして考えなければなりません。」
それからわたしはモーリーの引用を見ました。「どれだけ痛むかを忘れて、もう一度やってみなさい。」
わたしはその表面に向かって手を伸ばし始め、わたしの顔がその波を打ち破るのを感じました。わたしは息をしました。
「どのくらいいけるかと自分と疑うときはいつでも、今までにどのくらい進んできたかを思い出しなさい。今までに直面してきたものすべて、勝ってきたすべての戦い、乗り越えてきたすべての恐れを思い出しなさい。」
そして、マーク・マトウシェクの「ダイビングするとき」の中の引用を自分のものにしようとする中で、数週間ぶりにわたしは罪の許しを感じました。「完全な人間になるためには、わたしたちは心の痛みを受け入れなければならない。血を味わわずに人を愛することはできないし、弱さを受け入れずに人と関係を築くことはできない。霊的に最も無防備で筒抜けの人々こそ、もっとも多くを見る人々である。」
「心の傷を見せましょう」とモハメド・アリは言いました。「その傷により、人は愛の道にいることを知らせることができるからです。聖なる書物は、わたしたちに無防備になるよう勧めます。完全になりたければ、情熱の探求が自分自身を燃やし尽くすのを許さなければならないのです。」
Facebookの友達がわたしを救うためになにかを投稿するとはみじんも期待していませんでした。最初の引用は、ズタズタに引き裂かれたわたしの正気の最後の一片に働きかけました。わたしはその引用を日記に書きました。そうすることで、ヒステリックな状態を少し落ち着けることができました。
そしてとんとんと、他の引用が続きました。わたしは今までそれらの言葉を見たこともありませんでした。わたしにちょうど必要な言葉をこんな風に見つけるなんて、なんという偶然でしょう。無防備になるようにという引用を読み、日記に書き写したあと、わたしは頭を電車にもたせかけて、泣きながら、祈りに祈りました。
「わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府(よみ)の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。わたしは言った、『わたしはあなたの前からおわれてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望み得ようか。』」(ヨナ書2章2,4節)
「そこで主は彼らに御霊を下し、「慰めを得なさい」と言われた。そこで彼らは慰めを得た。」
わたしの中のなにかが変わりました。わたしの人生で初めて、自殺は選択肢の一つでなくなりました。
イエス・キリストはわたしの救いでした。正気でいる間、わたしは主に対する信仰の基盤を築きました。嵐が荒れ狂ったとき、わたしはどうにかその基盤にしがみつきました。絶望的に打ちのめされ、ほとんど手を放しそうになったときにも、イエス・キリストは嵐の中に手を伸ばしわたしを救ってくれました。
「見よ、神であるわたしは、すべての人に代わってこれらの苦しみを負い、人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした。その苦しみは、神であって、しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が、苦痛のためにおののき、…体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。しかしながら、父に栄光があるように。わたしは杯を飲み、人の子らのためにわたしの備えを終えたのである。」
一人ではない、一人にならない
すべての人の旅路は違っています。そしてきっかけとなるものも、人によって違います。
でも、似ているものもあります。暗闇が視界をうばうこと、憎しみの声が聞くべきものを聞く力を奪うこと、そして恐怖はあなたの光をすべて奪い去ってあなたを完全に飲み込むまであなたの首をしめる、ということなどです。
モルモン教の新しい自殺防止プログラムのウェブサイト(現在英語のみ)は、自分で命を絶とうとする考えに苦しんでいる人だけでなく、それらの人々を愛する人々や、自殺によって愛する人々を失った人たちにとっても素晴らしい助けとなります。
助けを求めることはわたしにとってとても必要なものだったことが、今回の件で証明されました。夫は具体的にどうすればいいかわかっていたわけではありませんでしたが、聖霊はわたしたちの家族の一番益となる方法にわたしたちを導いてくれました。
わたしの痛みや思いに対する彼の反応を見ることは、自殺を思いとどまる重要な力となりました。しかし、もしわたしが助けを求めずに衝動に従っていたら、彼のそういった反応を見ることもなかったでしょう。
当時も今も、わたしが毎日経験していた恐怖を説明するのにふさわしい言葉は見つかりません。わたしが欲しかったたったひとつのものは、この痛みを終わらせることでした。他人の光や才能を見つけるのは簡単なことです。そして最終的に、あなたは他人ばかりを見つめてしまうのです。自分自身を見つめても、目にうつるのは押しつぶされるような痛み、暗闇、失望、そして自分自身の価値のなさだからです。
でも、光はわたしたち全員にあります。それはキリストの光です。そして救い主がわたしたちのために血を流されたからこそ、わたしたちには希望があるのです。今日、この暗闇の中でも、その希望は永遠に終わることのない光の中に存在します。
「彼らは大きな艱難を通ってきた人たちであって、その衣を子羊の血で洗い、それを白くしたのである。神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとってくださるであろう。」(ヨハネの黙示録7章14,17節)
この記事はもともとDelisa Hargrobeによってmormonhub.comに”Saved from Suicede”の題名で投稿されたものです。
キャンベル 愛美
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とても素晴らしい記事です。
彼女の気持ちが、絶望の縁が、とても分かります。
この記事を紹介してくださった貴女に感謝します。
記事を気に入って頂けて嬉しいです。そう言ってくださり感謝します。