油絵の絵筆、油絵の具、筆クリーナー、パレット

描ける題材すべての中で、全能の主であるイエス・キリストという題材よりも重いものはないでしょう。未だかつて、彼のように’複雑な’存在はいませんでした。主は、死すべき体と神性の幅を完全に網羅しておられました。主は代弁者であり裁き主であられ、王であり弟子であられ、兄であり友であられます。数え切れないほどの世界を創造され、創造物すべてを数えられました。ツバメでさえもです。この偉大なメシヤを絵画に描くという挑戦を受け入れた、6人のモルモンの芸術家たちがいます。彼らは、自分自身と救い主との関係に基づいて人の心に触れ、人を救い主へ近づけるような芸術品を創作します。以下は芸術家たちの言葉です。

グレッグ・オルセン

グレッグ・オルセンが描いたキリストの絵画

“Even a Sparrow(ツバメさえも)” by グレッグ・オルセン

「救い主を通して見ると、なぜか自分の姿が違って見えます。周りにいる人も違って見え、彼らの中に、またわたしの周りの世界に主の光が見えます」救い主イエス・キリストを描く経験についてグレッグ・オルセンはこう言います。

「イエスの使命の一つは、この世で何を成し遂げることができるのかわたしたちに見せることでした」そして救い主が人々に仕えられたことについてこう付け加えます。「主は頻繁に周囲の人々に神性をお見せになり、わたしたちがどのようにして世界を見て、自分自身を見るべきか教えてくださいました」オルセンは、このより高い見解を『ツバメでさえ』という作品で表現しています。オルセンにとってこの絵画は、創造についての考え方を変えるものだそうです。「主と本当につながっています」とオルセンは言います。「わたしたちは皆、キリストの光のおかげで人生があります。キリストの光がわたしたちに浸透するのです。それはわたしたちに息吹を与え、命を与えてくれるものです。それは絵画の小さなツバメたちにとっても同じです。その繋がりが、ツバメほど小さな存在にも気づき、愛し気にかける包容力を与えるのです。わたしたちひとり一人も主と繋がりがあり、主はわたしたちに気づいておられ、わたしたちを愛しておられます。わたしたちの人生において主がご存知でないことや興味のないことは一切ないことを知り、安心することができます」

リズ・レモン・スウィンドル

リズ・レモン・スウィンドルが描くキリストの絵画

“Prince of Peace” by リズ・レモン・スウィンドル

人気宗教芸術家のリズ・レモン・スウィンドルがイエス・キリストを描く自分の能力に安堵を覚えられるようになるまで、しばらくの時間がかかりました。「他の芸術家と同様、責任感を感じています。わたしたちが描く絵画作品はその後の何世代にもわたって影響力を持ちます。中にはわたしたちの絵画に一部基づいてイエス様のイメージを抱く人もいます。それが現実なのです」それでも、スウィンドルはこう認識しています。「自分の才能を認めて、信頼しなければなりません。わたしがキリストの絵画を描き始めたとき、一般的なキリストを描こうと心に決めていました。すべての人に喜ばれようとしていました。そして私の意見が神様にとって意味のあるものであることにやっと気がつきました。わたしの才能は、他の人のキリストについての概念を表現するために与えられたのではないことに気がついたのです。それに気づいてから、心と霊から描くことができるようになりました。わたしたちの霊は、わたしたちが許しさえすればより多くのことを成し遂げるとてつもない容量があると思うからです」

スウィンドルが救い主を絵画に描くことを続けるにつれ、彼女の芸術家としての役割への理解と愛はより大きなものになりました。彼女はこう分かち合っています。「毎朝スタジオの扉を開けると、最初に目に入るのはイーゼルに置かれたイエス様の絵画です。スタジオは静かで平安で、まるでわたしが不在の間誰かが守ってくれていたかのように安全な雰囲気です。わたしがこう言うのは、毎晩帰宅する前に天のお父様にスタジオを守ってくださるようにお祈りするからです」スウィンドルにはそのような特別な経験を記録するうちに、キャリアとキリストの弟子としてのターニングポイントを迎えました。「神聖な気持ちを容易にばらまくのではなく心のそばにとどめておきたいと思ったときに、イエス・キリストとの関係が、芸術家としてのものから友情へと変わることに気がつきました。分かち合いたいと思う経験がありますが、重要なのは、分かち合うべきではない経験は何かを知ることです」

スウィンドルはこう結論付けています。「わたしは、わたしイメージでのイエス・キリストを描く資格のある唯一の人間です。それは他の誰にもできないし、わたしも他の誰かが持つキリストのイメージで描くことはできません。わたしの望みは、わたしの絵画が他の人たちのイエス様に関する思いに届き、彼ら自身と主との関係を育む機会を与えるものになることです」

ダン・ウィルソン

ダン・ウィルソンが描くキリストの絵画

“The Anointed One” by ダン・ウィルソン

芸術家としてのキャリアを始めたとき、ダン・ウィルソンは絵画の技術面に集中し、感情面にはさほど焦点を当てていませんでした。「とくに決まっていない題材で絵画を描いていました」とウィルソンは言います。「そして形、明度、縁、そして色が100パーセント完璧なことがすべてでした」ウィルソンがはじめて救い主を描いたときに、その考えは変わりました。

「それが、わたしがたくさんの感情を込めたはじめての絵画作品でした」と、はじめての救い主を描いた絵画についてウィルソンは言います。しかしそれだけではありませんでした。救い主を描くことに挑戦し、完成したものを友人や近所の人たちに配るうちに、ウィルソンは自分の作品が見た人に与える影響に気づきました。「そのとき強く御霊に打たれました」とウィルソンは回想しています。「そしてわたしはただの画家ではなく、人が主の弟子であること、そして信条を思い出せるような絵画で人々を鼓舞する画家になるべきだと知りました。人がなぜ存在するのか思い出せるような作品です」

ウィルソンは感情を込めた絵画を描くことは、技術面を犠牲にすることではないと言います。「主を描くとき、きちんとした作品にしたいのです。自分にできる最善の出来にしたいのです」とウィルソンは話しています。感情と技術を巧みに使うことによって、ウィルソンの作品は生き生きしたものとなりました。いばらの冠をかぶる救い主の絵画の作成中、ウィルソンは作品の詳細を確認していました。彼はこう振り返ります。「自分の作品を評価していましたが、ある時、一歩下がって作品を見てみると、自分の作品を評価する芸術家のようには感じられませんでした。救い主を見つめているように感じました。そして御霊が、主はまことにそのいばらの冠をかぶられ、聖書に記録されている奇跡を本当に行われ、わたしの罪の代価を本当に払われたことを証しました。主は本当にわたしたちの死に打ち勝つために亡くなられたのです」描くたびにそのような強烈な霊的な経験をするわけではありませんが、ウィルソンはこう続けます。「そのような経験をすると、すべて報われます。そして、わたしの絵画作品を見る人にもそのような経験が与えられることを望みます」

ローズ・デートック・ドール

ローズ・デートック・ドールが描くキリストの絵画

“Where Are Those Thine Accusers?” by ローズ・デートック・ドール

ローズ・デートック・ドールは「間の瞬間」のキリストに目を向けます。大きな出来事の前か後のキリストで、救い主としての使命を果たす上で注目されない主の姿です。

「わたしたちの人生のほとんどは偉大な行事ばかりではなく、普通の瞬間の積み重ねです」彼女はささいな瞬間に興味を持ちます。ドールは大量にある新約聖書の絵画作品において、たいていの作品は救い主の人生における重要な出来事についてを描いたものだと言います。それらは確実に描かれる価値のある出来事だと認識しながらも、ドールはそれがありふれたことになってしまったのではないかと恐れています。「わたしはためらいとおののきの混ざった気持ちで伝統的なシーンに取り掛かります」とドールは言います。「それはすでに同じ場面を描いた絵画がたくさんあるからです。キリストの絵画を目にして、それがどの場面を切り取ったものかすぐに分かるので、見逃してしまいます。だからわたしは新鮮な見方を提案したいのです」ドールの意見では、その新鮮な見方は出来事や行事自体を認識するだけではなく、個人的で心からの何かを付け加えるべきだといいます。

彼女の「あなたを罰する者はどこか?」という作品で、ドールは姦淫を犯して捕まえられた女というよく知られた出来事について描きました。しかしドールは罰する者たちが叱責を受けた後、一人また一人が女のもとを離れても、砂に文字を書き続けるキリストのもとに残された女のシーンに焦点を当てました。「砂に書き続けるキリストを前に描いたのは、その姿勢に何か怖れを感じさせないものがあるからです。主は女に命令をしているわけではありません。『たしかに、わたしはあなたの裁き主です。しかし、わたしはあなたに同情憐れみを持ちます』と言っているようです」男たちが姿を消し、前に目立つ二人の姿があるという構図のこの作品は、一対一のシーンを表しています。ドールは言います。「この絵画は贖罪です。あなたの罪を持って行くのは主のもとです。それはあなたと主の問題です。あなたと世界の問題ではありません。その他のものはすべて姿を消すべきです」

J・カーク・リチャーズ

J・カーク・リチャーズが描くキリストの絵画

“Greatest Among You Recommend Holder” by J・カーク・リチャーズ

J・カーク・リチャーズのスタイルは、多彩で印象的です。そして興味深いことに、過去何年にもわたって、最も多くの注目を集めたのは最も詳細に欠けるスタイルです。しかし、リチャーズはその理由を知っています。彼はこう言います。「絵画が抽象的なので、見る人にとって作品は象徴で、イエスがどのような人で、どのような見た目だったか自分自身の考えを投影する余地があります。そのような絵画は、キリストを知る過程で必要な信仰について思いださせてくれます」

リチャーズは自分のスタイルに大変注意深く、気持ちに注意を払いながら、キリストの絵画にそれぞれ違った方法で取り掛かります。「見る人が主の御霊の荘厳な美しさを感じられるように、それを少しでも絵に込めることができたら、と思います」その徹底した過程は「深く掘ること、つまり自然の世界の目に見えるものを想像や歴史的な典型と混ぜ合わせることを含む」とリチャーズは説明します。その想像は彼の作品には欠かせないものです。その理由をリチャーズは「簡単に真似のできる完璧なお手本を見つけたことがありません。霊的なものには、真似されたものには見つけられない神秘的なものがあります」と説明します。

その霊的な神秘というのが、リチャーズの作品作りにおいて最も難しいことかもしれません。リチャーズいわく、救い主を描く上で最も困難な点は「完全な愛、知識、知恵、憐れみと正義、強さ、そして共感など、人々が思い描く救い主が持つべき無数の感情や特徴を絵画に吹き込むこと」だそうです。人々にはキリストを見る際に表現されていてほしいことの長いリストがあると認識していても、リチャーズは時折その期待を無視します。彼はこう説明します。「人々にイエスを違った光で見てほしいのです。今まで考えたことのないことに思いを向けてほしいです」

デビッド・ボウマン

デビッド・ボウマンが描くキリストの絵画

“Home” by デビッド・ボウマン

第3ニーファイ17章を読んでから、デビッド・ボウマンはキリストの真の人格についての目に見える描写を作るように霊感を受けました。「その章を読むと、キリストがどんな御方で、どのような表現をされるかなど、キリストの人格に少し触れることができます」とボウマンは言います。キリストが描かれた作品を見ると、たいていの場合キリストはきりっとしていて、ストイックで近寄りがたい姿で描写されていると感じるそうです。しかしこの冷たく近寄りがたい姿は、ボウマンの信じるキリストの姿とはかけ離れたものです。ゆえに、ボウマンはキリストを描いた絵画のシリーズに取り掛かりました。

「主のより深い特質からくる表情を描きたいと思いました」ボウマンは絵画を描きながら、全体図よりも細かいディテールに焦点を当てることでそのような主の特質を描こうと試みました。「自分自身にこう言いました。『表情に焦点を当てるんだから、滝とか山とか壮大なものは一切描かない。表情とそこから放たれる光を捉えるために、顔に集中しよう』」

シリーズ中の一作”ホーム”で、ボウマンはわたしたちひとり一人と救い主の喜びと笑顔にあふれた再会を描きました。ボウマンは「この絵画を見る人が、キリストがわたしたちに持っておられる愛を感じられるように願っている」と話します。絵画と見る人、そして救い主との繋がりが、ボウマンにとって最大の祝福です。よりやわらかい表情のメシヤの姿を描く上で、ボウマンの究極の目標は、人々が救い主との繋がりを持つ助けとなる作品を作ることです。「キリストの表情シリーズに取り組むことは、他の人にキリストのような方法で助けとなることに挑戦する機会を与えてくれました」

アニー・ヘンリー・ネイダー

アニー・ヘンリー・ネイダ―が描くキリストの絵画

“Balm of Gildead” by アニー・ヘンリー・ネイダ―

アニー・ヘンリー・ネイダーは芸術家の伝統に従いながらも、独自のスタイルも作品に取り入れます。「宗教芸術の伝統を続け、また色あせることのないルネッサンスの技術、象徴、そして色を使って現代の信仰を表したかったんです」

しかし、ルネッサンスとコンテンポラリーの両スタイルを合わせるのは大変な作業です。特に全能の主を描くことへのプレッシャーも加えると、さらに大変な仕事になります。「救い主を絵画に描くのは本当にひるむような課題です」とネイダーは言います。「歴史において芸術は、人間が神様を表現する方法とされてきました」

ネイダーは歴史上の芸術家たちについて学び、芸術家たちはリストの一面しか作品におさめられていないことに気がつきました。神性もしくは死すべき姿、復活もしくは苦しむ姿などです。ネイダーには独自のアプローチの方法があります。「わたしは、わたしたちが地上で経験することすべてに共感を抱きつつ、深い平安を持たれる主の死すべき姿も神性も、同時に表現したいと思いました」

”ギリアデの乳香”という絵画を作成中、ネイダーはこの平安で共感される救い主を描きたかったそうです。彼女はこう説明します。「時に人生には、肉体的、精神的、もしくは感情的であろうと、完全に癒えることのできない傷を負うような経験があります。結局のところわたしたちを完全に癒してくださるのは、救い主なのです。救い主に癒されると傷跡も残りません」イエス・キリストを描く経験についてネイダーは次のように言います。「このようなことを学んでこられたのは大変価値のあることです。救い主の複雑さについて少し理解を深めることができましたし、主との関係を強め、贖罪のすばらしさを理解し、主に頼れば何事でも乗り越えることができるという信仰を強めることができました」

 

この記事はもともとAubrey Zalewski によって書かれ、ldsliving.comに”Greg Olsen, Liz Lemon Swindle + More Share What It Is Like to Portray the Savior in Art“の題名で投稿されました。

日本語©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company | Englsih ©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company

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キャンベル葵さんは東京都出身です。ブリガム・ヤング大学ハワイ校で英語教授法を専攻しました。在学中は一時休学し、アメリカのテキサス州で末日聖徒イエス・キリスト教会の専任宣教師として奉仕活動をしました。料理や、手芸、エクササイズなど、様々なことに挑戦するのが好きです。
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