あなたがたも完全な者となりなさい

ガリラヤでも、ニーファイ人の中でも、彼に従う者たちに、イエスは、 完全な者となりなさい、という高尚な戒めを与えられました。

ベニヤミン王は「神の戒めを守る者の祝福された幸福な状態についても考えてほしい。」と勧めています。しかし、完全である事を真面目に求める多くの人は、「この戒めを守る努力をする者のストレスに満ちた疲れ果てる状態」という表現をするでしょう。

それはどうしてでしょうか。天のお父様の戒めは、平安と幸福をもたらすものです。完全な者になるという戒めが心配や不安をもたらすのはなぜでしょうか。それは、わたしたちがすこし的を外しているせいだと私は信じています。この戒めを読み、二通りの間違った解釈をしてしまうのです。

  1. それだから、あなたがたも完璧主義者となりなさい

人々に教えるイエス・キリスト

写真はすべてlds.orgより

わたしたちは、この戒めを、神様の愛する子供たちへの究極の望み(彼が持つ全てを受け取れるように、神様がわたしたちに変化させたい姿)ととらえるかわりに、それは神様の元へ戻れるふさわしさの必須条件だととらえる傾向があります。言い換えると、わたしたちは、自身の価値は完璧さに基づいて決まると感じるのです。(それが完璧主義の定義です。)

わたしたちは完璧に掃除された家や完璧に着飾った子供たちを元に価値を決めます。完璧な仕事や身体、やるべきことリスト、近所関係、友人、聖餐会でのお話、洋服、家族、成績、奉仕、身なりやその他のことによって価値を飾ります。

そして、これらのものは実際には完璧ではないので、わたしたちは、自尊心を守る為に完璧なふりだけでもしようと努力します。

しかし、そのような取り組みには二つの問題が伴います。

1.お互いを遠ざけてしまう。

みんながみんな同じ取り組みをしていると、 自分には到底できないと知りながらまわりの人の完璧な家や完璧な笑顔を見せられるのですが、そのまわりの人もあなたを見る時に全く同じことを考えているということに気づきません。

2.わたしたちの価値は生来のものであり、稼ぐものではない。

わたしたちの価値はすでに、カルバリの十字架の上で架けられたのです。その時、疑問や論争を越え、わたしたちは自分の価値を他のどこにも架ける必要はないと証明されました。

主がわたしたちに意図されるような完全の域に達するには、わたしたちにはお互いが必要で、わたしたちに受けるに値しないキリストの愛とその無限の価値を十分に受け入れる必要があります。

しかし、主はわたしたちにどのような完全を意図されているのでしょうか?

  1. それだから、あなたがたも完全な者となりなさい(以上。)

ニーファイ人にキリストが現れる

完全になる事を熱望するときに、わたしたちは戒めの一部を忘れがちです。キリストはただ「それだから、あなたがたも完全な者となりなさい(。)」とは言われませんでした。主は、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と言われました。そしてニーファイ人には「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全になることを、わたしは望んでいる。」と言われました。

この戒めの部分はしばしば、わたしたちが見逃してしまいがちな鍵となる部分です。『完璧』な誰かを思い浮かべる時、わたしたちは大抵、よく手入れされた家に住み、将来有望の職に就き、引き締まった体つきで、礼儀正しい子供たちがいて、お洒落で、明るく社交的な人を思い浮かべます。

それらは悪いことではありませんが、必ずしもキリストが意図されたものではありません。彼はわたしたちに、彼御自身という完全さの明確な見本をくださいました。しかしわたしたちはあまりに頻繁に、間違った種類の完璧さを求めて努力してしまいます。キリストの見本のかわりに、この世の見本を追ってしまうのです。

 

この世的な標準を持つ人々にとって、イエス•キリストは完璧ではありませんでした。

  • :イエス自身、ホームレスであることを嘆き、子供の頃は難民でした。
  • 家族:イエスの母親は、結婚した時にはすでに妊娠していて、恐らく若い頃に継父を亡くし、兄弟たちはイエスの救い主としての召しを当初は受け入れませんでした。わたしたちの知る限り、イエスには妻も子供もいませんでした。
  • 容姿:彼には見目の良さもなく、華麗さもありませんでした。彼を慕うような美しさも彼にはありませんでした。
  • 服装:彼の持っていた唯一の下着は、イエスが亡くなった時に兵卒たちに分けられました。
  • 幸福:彼は悲しみの人で悲哀を負っていました。
  • 友人:イエスは人々から侮られて捨てられました。彼の一番親しい友人たちでさえ、彼を否定し、裏切りました。
  • 学歴:ユダヤ人は公式の学歴はないだろうと思い「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識を持っているのだろう」と尋ねました。
  • 職歴:全盛期に大工の修行を辞め、弟子たちにも同じようにするよう求め、旅するラビ(先生)として暮らしました。

 

それでも、イエスは完全なのです。

よって、神様の言う完全とは何なのか、という質問にたどり着きます。イエスはどのような意味で完全な御方なのでしょうか。

完全な信仰、愛、赦し、従順、またその他の徳質が真っ先に思いつくでしょう。

しかしこの質問は、わたしたちが真に深く考えるにつれて、より深い答えと甚大な見識をもたらします。完全の真の意味とはなにか考えるにあたり、この質問は、聖典学習の素晴らしい焦点となると思います。

(わたしの福音を述べ伝えなさい第6章とこの戒めが与えられた山上の垂訓などから始めるといいでしょう。)

正しい意味での完全を求める

ニーファイのように、わたしも、主が命じられることには、それを成し遂げられるように主によって道が備えられており、それでなくては、主は何の命令も人の子らに下されないことを知っています。そして主の戒めはわたしたちに最上級の幸せをもたらすように設計されていることも知っています。

わたしたちも、完全になることができます。それはキリストのような完全さです。

彼は繰り返し、このような言葉を通して道を示してくださいます。

「わたしは道である。」

「わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。」

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」

キリストの贖罪はわたしたちを変えることができ、究極的には彼のように完全な者へとすることができます。そして彼がわたしたちのためにしてくださった全てのことのあとで、どのようにしてイエスはわたしたちから完全に劣るものを期待できるでしょうか。完全になることだけを通してわたしたちは彼がわたしたちのために備えられた究極の栄光を受け取ることができます。そしてその時に贖罪は最大の効能を発揮します。

作家CS•ルイスは完全になることの過程と目標についてこのように説明しています。

イエスは、「わたしは、あなたが完全になれるような手助けしかしません。

あなたはそれに劣る何かを望むかもしれないけれど、
わたしはそれに劣るものは何一つあなたに与えません。」
という意味で話したのだと思います。

説明させてください。子供の頃、よく歯痛を経験しました。…

私は一刻も早く痛みに収まってほしかったのですが、永久歯が生えるまで痛みが治まるのは難しいことでした。
そしてわたしは歯医者の手口を知っていました。まだ痛んでいない他の歯をいじるのです。

そんな例えを使いましたが、主は歯医者のような御方です。
たくさんの人々が、恥を感じていたり、日常生活に支障をきたしている特定の罪から解放されるために主のもとへ行きます。さて、主はそれらを全て治してくださいます。しかしそこで終わらせることはしません。あなたがお願いしたのはそれだけかもしれませんが、一度主に頼ると、彼は完全な治療を施します。

だからキリストは、クリスチャンになる前に「犠牲を数えなさい」と人々に警告されました。「間違いを犯さないようにしなさい」、彼は言います。「あなたがわたしにそうさせてくれるならば、わたしはあなたを完全な者としましょう。あなたが自身をわたしの手においた瞬間、それがあなたの目的となります。それ以下でも、それ以外でもありません。あなたには自由意志があり、わたしを追い出すという選択もできます。しかしわたしを突き放さないなら、この仕事がきちんと行われるのを見届けるということを理解してください。」

あなたが若いうちにどんな辛い思いをしようと、死後にどんなに信じられないくらいの浄化が必要だとしても、わたしがどんな犠牲を払わなくてはいけないとしても、あなたが文字通り完全になるまで、御父が留保なくわたしに満足されたように、あなたにも満足されるまで、わたしは休みませんし、あなたを休ませることもしません。これがわたしにできることであり、わたしがなすことです。しかし、わたしは、これ以下のことは何もしません。

 

キリストを信頼し、彼に「仕事を行わせる」ようにするならば、彼はわたしたちを完璧、彼の意味での完全な者としてくださいます。そして、モルモンが約束したように、「御子が御自身を表されるときに、御子に似た者となれるように」なります。

 

この記事はmormonhub.comに掲載されていたものです。翻訳者はキャンベル葵です。

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キャンベル 愛美

キャンベル愛美さんは二人の子供の母親です。ブリガム・ヤング大学ハワイ校に在学中、ユタ州ソルトレイクシティ伝道部で専任宣教師として奉仕し、その後心理学専攻で卒業しました。音楽が好きで、テナーサックス、ピアノ、ウクレレを弾きます。家族の問題やあり方、人との関わり方について興味があり、よくそういった記事を翻訳したりしています。

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