イエスの死後、十二使徒は教会を運営し福音を教えるために7人の人を弟子に選びました。その一人がステパノで、神を愛し神の戒めに従うので大変有名でした。他の者と一緒に按手礼によって聖別されました。それは、使徒がその手をステパノの頭に置いて、神からの祝福を与え、自分の責任を果たすために神からの権威をもって行えるように権能を与えました。
ステパノはまもなく困難に直面しました。神を冒涜したとする偽りの告訴で評議会の前に連れ出されました。彼らが告訴したときステパノの身が変えられたのを目撃して驚いたことでしょう。
彼らはステパノがそのでっち上げの告発に対して無実であることを証明することをまったくしようとしませんでした。しかし、ステパノは勇気を持ち続け、神様が人々にもたらされた祝福と、告発している人々の罪について評議会で話しました。聞いている者たちは怒りましたが、ステパノには聖霊がついていました。彼は次のように述べました。
「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った。」(使徒行伝7:55,56)
このことは人々が聞きたくないと思っていることでした。その示現にかかわりたくないと思って、彼らは彼を追いかけました。力づくで市の外に出し、石を投げました。神を呼んでいるときに彼は殺されました。
新約聖書の歴史の中にあるこの力に満ちた瞬間のことは私たちに神とイエス・キリストについて、またクリスチャンとしての責任について多くの価値ある教訓を与えてくれます。
最後まで堪え忍ぶ
イエス・キリストの弟子になることを選ぶことは容易でないのが普通です。とりわけ自分の信条を公言するときには。福音を分かち合うことはすべての教会員に対する戒めです。それは特別な召しを受けた人だけではありません。救い主の名をわが身に受けたとき、主の福音をほかの人に分かち合うように同意したのです。そうすることでいろいろなひどい目に合わされることがあってもです。ステパノのように自分の信仰のために殺される人はほとんどいないでしょうが、むしろ信仰ゆえに生きることを求められますが、時にはその方がもっと難しいことです。生活がよりチャレンジに満ち、勇気が試されるのは、日々やってくる数々のチャレンジです。しかし、このようなチャレンジは私たちの信仰を築き、永遠の事柄に対する決意の深さを証明する手立てになってくれます。
神とイエスのご性格
聖書の多くの聖句は神とイエス・キリストがその業と証と教義において一致しておられることを証しています。しかしその他の面では完全に別々のお方です。ステパノの見た示現は、それによって彼は殺されましたが、この点に関する証になっています。彼はイエスが神の右側におられるのを目撃したのです。お二方は立っておられました。そして聖霊がステパノの上にありました。ですから御三方全員がその場に居合わせました。神が御自分の特徴をステパノにお見せになろうとしたことは偶然ではありません。そしてこの教義について彼が驚かなかったのは、彼の時代にはそのことが普通に知られていることだったのです。彼の語るのに耳を傾けた人は、イエスが本当に神聖な方で生きているのかどうかという情報に対してだけ異論を唱えたのであり、イエスが神とは別々な方だという点にではありません。
ステパノはイエスと神の両方を見ることができたことに注目します。このことは神の本当の神性を明らかにしています。つまり、神は体をお持ちで、しかもその体は完全なものです。その点は私たちが神の姿にかたどって創造されたという点に一致しています。形が不特定などとは言っていません。親と子供は似ています。そして、神は私たちを愛しておられるので、神の持っておられるすべてを私たちが持つことができるように望んでいらっしゃるのです。それはどのような愛のある親が望むことと同様です。
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