1965年8月31日、わたしはブラジル・ソロカーバ市にある他のキリスト系教会の集会に出席しました。わたしはアメリカ、ユタ州の守られた環境に育ったので、教会でピアノやオルガンによる讃美歌の伴奏を聞くのが当たり前になっていました。しかしその教会にはチューバ、トロンボーン、クラリネット、ドラム、シンバルのセクションから成る金管バンドがありました。
その日に綴った日記を読み返してみると、大音量の音楽を聴くクリスチャンは、本当のキリスト教の精神をとうてい理解していないと思い込んでいた自分に気づきます。そのような気持を助長するように、わたしはさらに日記にこのように書き綴っていました。「この街のあるプロテスタントの教会の雨どいには、『イエスは罪びとを救うためにこの世に来られた。』と書かれていました」。
その時の自分は、メッセージの内容そのものではなくて、メッセージの美的感覚のことを気にしていたのだと思いたいものです。自分がその時に感じたことは間違っていたと思います。救い主の名前を雨どいの辺りに書き込むのが不謹慎だと思っていたことです。あるとき教会で礼拝しているときに、わたしはその時の経験を思い出しました。
イエスは罪びとを迎える
モルモン教の会衆のある会員が自分の好きな聖句、ルカ書15:2を引用していました。「この人は罪びとを迎える。」
それまで何度もルカ書15章を読んだり、その章について書いてきました。しかしわたしはいつも、いなくなった羊や、なくした銀貨、また放蕩息子に気をとられていて、大事な本質の部分を見逃していました。それは、そのルカ書15章全体のテーマでもありますが、すなわち「この人は罪びとを迎える。」ということです。
もちろん主はそのとおりにされます。主は罪びとを探し求め、彼らのために待たれ、彼らが戻ってくると喜ばれます。わたしたちは雨どいでも、どこでも、「イエスは罪びとを救うためにこの世に来られた。」と書くべきなのです。主は決して罪びとでない者たちを救うために来られたのではありません。それでは、主はどのようなところで救われるべき人を見出されるのでしょうか。
主はわたしたちが聖徒となることを望まれています。それなのに私たちは皆、罪びとです。(ローマ人の手紙3章23節、ヨハネの第一の手紙1章8節) それで主はわたしたちを救うために来られたのです。
贖いから得る祝福
救い主はゲッセマネの園において、また十字架において苦しまれました。それは、神の摂理によると、罪びとの咎に対して定められた罰として、代価が支払われる必要があったからです。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった……彼はわが民のとがのために打たれて……」(イザヤ書53章4,8節)。
その時に苦しまれたことにより得られた祝福とは、もしも罪人が悔い改めるならば赦されるという約束なのです。「私の名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし…」(歴代志下7:14)。
「この人は罪びとを迎える。」 これが贖いの大意なのでしょう。悔い改めを条件として主は罪をお赦しになります。その赦しは完全で無限のものです。
主はこのように言われました。「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した」(イザヤ書44:22)。主はわたしたちの罪を視界から見えないところへ遠ざけられます。
主はこのように約束されました。「もろもろの罪を海の深みに投げ入れ」(ミカ書7章19節)主はわたしたちの罪をはるか遠くに退けられました。
主はこう宣言されました。「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない(エレミヤ書31章34節)。主はわたしたちの罪をもはや思い出されることはないのです。
主はこのように言われました。「しかし、悪人がもしその行ったもろもろの罪を離れ、わたしのすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。その犯したもろもろのとがは、彼に対して覚えられない。彼はそのなした正しいことのために生きる」(エゼキエル書18:21-22)。主はわたしたちの罪をもはや考慮されることはないのです。
そしてついには、主はわたしたちの罪を消し去ることを約束されました。「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消すものである」(イザヤ書43:25、詩篇51:1,9、使徒行伝3:19も参照)。
わたしたちを受け入れてくれる赦しの泉は、救い主の愛と贖いから湧き出ており、決して乾くことがありません。どんな罪人でも主のもとに来るならば受け入れられるのです。「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」(イザヤ書55:7)。
わたしは主が「豊かにゆるしを与えられる。」というフレーズが大好きです。なぜなら主のもとに来て、主の教えを信じる者に約束された主の宣言を思い起こさせてくれるからです。主は 「その者を、惜しみなく赦そう」と言われているのです(モーサヤ書26:22)。
この記事はテッド・ギブボンズによって書かれ、ldsマガジンに投稿されたものです。翻訳者は前田美佳子です。
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