ミントのブーケ

わたしたち家族の間では、人にどのように接するのかを大切に考えています。子供たちは一日に必ず1,2回は「お互い親切にしてね」「お互いに優しくしてね」というような声かけを受けます。もし子供たちの頭をパカっと開いて、頭にこのメッセージを刷り込めたらやるのにな、なんて考えてしまいます。

わたしの子供時代

わたしがこのように考えるのは、自分の子供時代の影響が大きいと思います。わたしは学校ではそばかすだらけの赤毛で知られていました。どちらも自分では変えられないことでした。

残酷なひと言が、子供の自己イメージを作り上げてしまうことがあります。それをくつがえすためには20、30もの肯定的な言葉が必要になります。子供時代を振り返ってみると、自分のことをからかった子たちのことをあまりよく思えないものです。

たとえずっと前に赦していたとしても、心の傷跡は残っています。もしかしたらその子たちは素晴らしい大人になっているかも知れません。そうだとしても、残念ながらその子たちの悪い行いがわたしの脳裏に忘れられない思い出として残っています。

良かったことは、それとは正反対の経験もしたことです。わたしは子供の頃に大好きな友達たちがいました。真実の友達たちはわたしの外見を気にしませんでした。その子たちはわたしの内側の良いところを見てくれていました。

優しくなることの大切さ

フルーツを一緒に食べる子供たち

ジョセフ・B・ワ―スリン長老はこのように言われました。「思いやり深い言葉は、発せられた瞬間に人の心を高めるだけではなく、何年にもわたって心の中に響きます。」

ある日、9歳になる娘のミシェルが学校から帰ってくると、わたしと話したいと言ってきました。彼女の友達のアシュリー(仮名)は周りの子に優しくできないことがよくある子なのですが、その子がいつも娘のそばに寄ってくるというのです。

「ママ、わたしあの子が意地悪するの好きじゃないの。」とミシェルは言います。「なんでいつもわたしのそばに寄ってくるのか分からないわ。」

そこでわたしは、「その子になぜか聞いて見たらどうかしら?」と提案してみました。

娘はその通りにしました。翌日ミシェルは帰宅すると、話がしたいとまた言ってきました。アシュリーがいつもよりしつこくまとわりついてきたので、なぜ仲良くしたがるのかと尋ねたそうです。

「アシュリーはわたしが優しいから好きなんですって」とミシェルは言いました。

彼女は驚いた様子でしたが、わたしはさほど驚きませんでした。娘にどのように返事したのか尋ねました。娘はアシュリーに「わたしもあなたの事好きよ。でもあなたはもっと優しくならなきゃ」と言ったそうです。

どうして誰もが優しさを追い求めるのでしょう?ワ―スリン長老は「思いやりという美徳」というお話の中でこのように話されました。(2005年4月総大会)「思いやりはキリストのような人が周りに示す態度です。」わたしたちが人に優しく接するときに、わたしたちはキリストのような者だと言えるでしょう。それはとても単純なことです。思いやりのある言葉を発するときには、わたしたちは神の王国を建てる手助けをしています。わたしたちは乱暴な言葉を発するときは、王国を破壊しているのです。

今こそ自分自身に問うべきではないでしょうか。「わたしは周りの人にどのような人物として思い出してもらいたいだろうか?」わたしは周りの人にみじめな思いをさせた人として覚えてもらいたいだろうか?それよりも、わたしたちは周りの人から優しく愛に溢れた素晴らしい友だったと思い出してもらえるように日々努力するべきだと思います。

この記事はLaurie Wによって書かれ、ldsblogs.comに投稿されたものです。

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美佳子さんはモアグッド財団の翻訳者であり筆記者です。ユタ州立大学で音楽療法を専攻した後に、音楽療法士になりました。読書、楽器を弾くこと、文章を書くことが好きです。