主とつながるたとえを象徴するぶどうの木

ヨハネ15章の中で、救い主は使徒たちにご自分が本当のぶどうの木であると教えられました。この箇所でわたしはいつも悩んでいました。しばらくこのたとえを学んだ後、やっとその意味がわかってきました。この投稿では本当の木につながっているとはどういう意味なのかを考えます。

2003年12月のリアホナ〔教会の月刊誌〕にアントニー・R・テンプルによる「イエスのたとえ:『わたしは本当のぶどうの木』」という記事が載りました。この記事によってヨハネ15章でイエスが言おうとなさったことがもっとわかるようになりました。テンプル長老の記事を読むようにお勧めします。

これを「たとえ」と呼びます。しかし、むしろ比喩と言った方がいいかもしれません。自分たちのイエスと天の父に対する関係をぶどうの木の枝と根に比べているからです。天父が木を養っています。1節から3節までで、わたしたちとイエスと天父との関係の基本を学びます。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。」

「本当」(ヨハネ書中では「まことの」と表記)という言葉の代わりに「誠実」とか「一貫している」という表現で考えてみてください。イエスは本当のぶどうの木であるという意味は、主がいつも御父の願いに忠実で、わたしたちが成長したくさんの実を結ぶように配慮なさってくださるのです。主の望んでおられることは世話する植物ができるだけたくさんの実を結ぶことです。この場合、たとえていることは天の父が全力を尽くしてわたしたちが繁栄し、できる限り幸せになるように配慮なさるということです。天父はそれを、イエスを通してなさいます。直接ご自分で行なうことができないからです。(これが堕落と贖いの教義そのものです。)

枝をきれいにするとはどういう意味なのか調べるために、Youtube.comに行ってぶどうの剪定や栽培についてのビデオを見ました。1つのビデオは特に面白かったです。ぶどうのなる枝の葉っぱが伸び過ぎると、ぶどうが腐る率が急増するのです。余分な葉を除いてやると、ぶどうの房に日が当たり、実は大きくなりずっと健康になるのです。

どのようにつながっているか

ヨハネ15:4−7でイエスはわたしたちが主につながっている必要があり、主もわたしたちにつながっている必要があると使徒たちに教えられます。つながっているという代わりに、「完全に信頼する」とか「依存する」とか「そのために生きる」という表現を考えてみましょう。それでも意味が通ります。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、何でも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」

4節で木と枝がどのように互いに依存し合っているか考えてください。木の幹は枝に養分を与えますが、それ自体では農夫の望んでいる収穫のための実を結ぶことはできません。枝が実を結びます。そして結実は幹からの栄養があることが前提です。実が結び収穫できるために2つのものが調和して働かなければなりません。

このようにわたしたちはあらゆる霊的な栄養をイエスに頼っています。ぶどうの木なしに枝が生きられないように、木も枝なしでは望んでいる実を結べません。相互に依存しているのです。

イエスがご自分なしではわたしたちが何もできないと言われたのは確かに真実です。イエスなしではわたしたちは全く役に立ちません。そして結局他の枯れ木といっしょに火に投げ込まれてしまいます。

すばらしい約束が7節にあります。わたしたちがイエスに願うすべてのことが与えられるという約束です。もちろん、これは実の生産に関わることで、天の父がわたしたちに求められている善行です。これがこの関係が目的とするもので、善をもたらし神の子供たちに幸せをもたらすことです。

わたしたちの関係が定義される

神の栄光につながる、善なるものを生産するこの努力において3者の役割が定義されます。8節は:

「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」

イエスがわたしたちに備えてくださった贖いなしには、わたしたちはいかなる善でしかも永続するものをも生み出すことができないので、わたしたちは主の聖徒となり、弟子になって、学べるすべてのことを学ばなければなりません。わたしたちに命を与える木の存在がなくしては、わたしたちは不毛な枯れた枝でしかありません。わたしたちが一緒に、つまりイエスとわたしたちが生み出すものは、神に栄光を帰するものです。

つながっているという言葉の別の側面は、続けることです。次の賛美歌の歌詞を考えてください。「とどまりたまえ」別の表現をすれば、暗くなるのでわたしといっしょにとどまり、引き続き一緒にいてくださいという意味です。次は9節から11節です:

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」

わたしは10節が好きですが、イエスが、率直にご自分が御父の愛につながり、とどまっているようにわたしたちも主の愛の中にとどまれるように、主の戒めを守るようにとおっしゃいます。それがわたしたちにとっての鍵です。つまり戒めを守ることです。わたしたちが教えられたように生きることによってわたしたちは最高の善と喜びを生み出すのです。11節で主はこれが彼の喜びがわたしたちと共にあり、わたしたちが喜びに満たされる方法であるとおっしゃいます。

最後に、12節から15節です。わたしたちの関係ははっきりと愛し合う友だちの関係であると定義されます。主は僕にご自分のすることの理由を述べられませんが、友だちにはその理由を明かされます。イエスはわたしたちのことを親友のように愛しておられ、わたしたちのためにすべてのものを与えたいと心から望んでおられます。その命さえも。主は主の助けなしには何もできないわたしたちが同じように主を愛するようになると想定なさっています。

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」

枝を切り詰められることを予期する

だれもが生涯のある時期に、自分が見えない力によって「切り詰められた」と感じることがあるでしょう。わたしたちは失望や後退をいやがりますが、このようなときは主がわたしたちの枝を切り詰めてくださっている時で、そのような努力が究極的な幸福につながらないからです。わたしたちは主なる庭師の手によって検閲を受けて、枝を切り詰められることに感謝すべきです。総大会の何人もの話者が何十年にもわたって、このトピックについて多くの話をしてくれています。

人生の過程で、自分がいかに救い主に依存しているかを覚えておくことが大切です。主の助けなしには、長く続く良い結果や自分が求めている喜びを得ることができません。わたしたちは主の戒めを守ることによって主につながっています。これは主が天の父と戒めしめ守ることによってつながっていたのと同じです。

キリストが与えてくださったこの生涯でもっと謙遜になるようにこのたとえ話は教えてくれます。たとえそれが自分をいらだたせる原因になりうるものでも、天の父が与えてくださる枝を切り詰め、清める働きにもっと感謝しましょう。これらの聖句を読むと、わたしたちはもっと主を深く信頼する気持ちになります。主はわたしたちを友として扱ってくださるのですから。そして希望を持ってわたしたちはイエスのような方が喜んで命を捨ててわたしたちが生き、究極的には天の父に栄光をもたらすようになさったことを特権として感じられるようになりたいものです。

 

この記事はケリー・P・メリルによって書かれ、ldsblogsに投稿されたものを有泉芳彦が翻訳しました。

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Yoshihiko

子供の頃から動植物に興味を持ち、大学に入ると生態学等を学んで自然保護や育林をライフワークと考えるようになっていました。その私が人々の教育や成長に関心をそそられるようになったのは、大学卒業後2年間キリスト教 の宣教師として働いてからのことです。大学院で学校教育学を専攻し修士課程を終えた後、アメリカの大学で教授法の博士課程に進みました。卒業後はアメリカの私大で教職につき、日本での塾経営を入れれば、これまで30年以上も教育の実践に携わってきたことになります。現在では、博士論文に基づくセルフコーチングの方法論を発展させ、教育の分野だ けでなく、ビジネス、芸術、スポーツ、人間関係など、幅広い分野での応用を試みています。