日没を見る女性のシルエット

ハッピーになる選択。短くてシンプルな表現ですが、捉え方は人それぞれです。このフレーズには前向きな捉え方をする人が多いと思いますが、時として、その選択をすることがどうしようもなく不可能に感じる人もいるはずです。試練の中にいる人たちへ「ハッピーになる選択」をするようすすめる時、その人たちは苦難の中に光を見い出したり、その中で受ける感情や精神的なトラウマから離れることを望んでいます。

「ハッピーになる選択」をすることについて話す時、モルモン教の会員の多くが気づいていないことがあります。それは彼らが「ハッピーになる選択」によって幸せになっているのではなく、「キリストと歩む選択」から幸せを得ているということです。二つの選択は一見同じように感じるかもしれません。しかし、世に言う「ハッピーになる選択」と福音の中で言う「キリストと歩む」選択には、とてつもなく大きな違いが隠れているのです。この違いを理解すると、自分自身や他の人をどのように強めればいいかを学ぶことができます。

ハッピーになる選択には限界がありますが、キリストと共に歩む選択には限界がありません

ほとんどの人たちは、善意からしているのですが、「ハッピーになる選択」をしようとする時、自分自身に焦点を当てがちです。幸せでプラス思考の人のところに人々が集まってくるのは人間の性です。苦しんでいる人がいる時、私たち教会員は彼らを助けることを聖約しています。これは、大変迷惑な話だ、となるでしょう。「ハッピーでいなよ」と言うことは、「笑顔でもっと違った行動をしてくれたらいいのに。そしたら、私たちの人生はもっと楽になるはずだから。」と苦しんでいる人に言っているようなものです。

キリストと共に歩む時、私たちは安全な場所を選びます。主は私たちにありのままで主の元に来るよう言っています。感じていること、考えていることをそのまま話すのです。ネガティブな感情や態度を持っている自分に気づくかもしれませんが、キリストと分かち合うことができます。そうすると、キリストがこれらのネガティブな感情を人生の糧として後に役に立つものとしてくれます。神の御心を通し、私たちの行動する力やコントロールする力が養われるでしょう。

ハッピーになる選択をすると、苦難から逃げることはできますが、キリストと歩む時に苦難に感謝できるようになります

苦しんでいる人のほとんどが自分の困難を軽く見られたり、無視されたりすることなく声にしたいと願っています。彼らの最善を願ってだとしても、他の人が「態度を変えて物事を見ることで状況を改善することができる」と言っても、ほとんど助けにはならないのです。解決案をあげるのと共感を示すのはタイミングと場所を選ぶ必要があります。特に沈んでいる時の彼らは、本当の自分ではないのです。そんな時は、悲しむ者とともに悲しみ、慰めの要る者を慰める時なのです。

キリストは苦労から逃げること、また乗り越えることを教えているのではありません。私たちが苦難の中で受ける痛みを高く評価します。そして、その後にその痛みを引き受け、聖別してくれるのです。さらに重要なことに、贖いの力を通し、その苦しみを益にしてくださいます。キリストを選ぶ時、私たちの受ける悲しみは補われ、時間とともに輝きとなるのです。私たちが痛みや重荷に押しつぶされそうになる時、主は謙遜になって助けを求めるよう望んでいます。そうする時に、主は私たちに希望という小さな種と力を与えてくださるのです。

ハッピーになる選択はプライドを招き得ますが、キリストと歩む選択には謙遜さを招きます

人は誰でも、自分を守ろうとする性質があります。また、何事も自分自身でコントロールができる環境にいることを望んでいます。この二つの性質が逆境の中に現れる時、人は怒りや悲しみを覚えるはずです。そんな中、ハッピーになる選択をするようにと告げられると多くの人が不愉快に感じます。その発言は、彼らが自分で悲しみの状態を選んでいると、ほのめかしているからです。プライドが逆立てられ、このように叫びたくなります。「何も悪いことなんかしてないのに、こんな目にあってるんだよ!できることは全部してるんだから!!」ハッピーになることを選んでいないということは、それより価値のないものを選んでいる、と社会は思わせがちです。

我慢して、強くなるより、キリストは私たちに謙遜でへりくだった幼子のようになるよう言っています。そうする時に試練の中にあっても、小さな祝福や成長を見ることができます。そして常に、キリストは私たちを優しく謙遜になるよう導いてくださいます。主は純粋な愛を示し、わたしたちが変われるようにわたしたちの心を柔軟にしてくださるのです。

ハッピーになることを選んでも続きませんが、キリストの平安は続きます

ハッピーであることとは、どんなことかわかっていると思っているかもしれません。世に言う「幸せ」と言ってもたくさんの定義があります。文化や流行によってその定義は簡単に変わってしまうかもしれません。ハッピーになることを選ぶ時、よくしてしまうのが、幸せとは何かという自分の狭い見解に捉われてしまうことです。

キリストと歩む時、本当の喜びを見出すことができます。この喜びは一時的な快感や喜びに比べ、永遠に続く平安な気持ちです。「良い1日」よりも深く、典型的な幸せの形をしていないこともあります。事実、個々に違った形に見えるでしょう。一瞬の笑みをもたらす幸せに目を向けるより、継続的な信仰と強さを養う正しい習慣と、もしもの時の備えを強めることができます。主イエス・キリストを選ぶ時、他のどんなことよりも、主の与えてくれる約束を信じることを選択するのです。時に、それが他の選択に比べて魅力的に感じられなくても、ベストを尽くして主が望んでいる選択をすることができるよう努力してください。

結局のところ、キリストを選ぶことが私たちの人生でできる最善の選択なのです。そして、それができるように誰かを励ましてあげることも。

 

この記事はアレア・イングラムによって書かれ、LDSDailyに投稿されたのを仲間富士香が翻訳したものです。

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fujika

メディアスペシャリストモアグッド財団
仲間富士香は、沖縄県、那覇市出身。ブリガムヤング大学ハワイ校卒業。カルフォルニア州、オークランド・サンフランシスコ伝道部にて専任宣教師として奉仕を終え、今現在、夫の大学院のため、アメリカ、オハイオ州に在住。モアグッドファンデーションのメディアスペシャリストとして働いています。