黙示録22章からのページ聖書は神の言葉です。それはきわめて明らかにされるべきです。わたしたち末日聖徒イエス・キリスト教会の会員はそれを信じ、学び、その教えの中で生きようと努めます。しかし、もしあなたがわたしたちの宗教をよく知っているなら、わたしたちモルモン教徒がもうひとつの聖典を信じていることを既に知っているでしょう。それは必ずしも全ての人から受け入れられいるということではありません。

残念ながら、多くの人、個人的な友達さえも、聖書以外に他の聖典があるかもしれないということに腹を立てる人もいます。この記事は、旧約聖書が新約聖書を理由に消えてしまわなかったのと同様に、聖書の価値を奪うためのものではありません。 逆に、この記事はそれぞれの時期に、それぞれの場所で、神が他の人々に話されたということを称賛するものです。

 

1、聖書だけが神の言葉であるという概念の起源

そもそも、聖書だけが神の言葉だという概念はどこからきたのでしょうか。それでは、よくソラ・スクリプトゥラ、すなわち聖書だけが完全な神の言葉であり、それ以外は何も横に並ぶことはできないという考え方の証拠として引用されている黙示録22:18-19を見てみましょう。

「この書の予言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの予言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、取り除かれる。」

どうでしょう。聖書だけが神の言葉ということですね。とても簡単です。
でも本当にそうでしょうか。それでは申命記4:2を見てみてみましょう。

「わたしがあなたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。」

黙示録は旧約聖書のはじめの部分に、そして申命記は新約聖書の最後の部分に現れます。類似点に気が付きましたか?もう一度言います。”付け加えること、または取り除くことができない”という戒めは理解しています。もしわたしたちがモーセの十戒「聖書に追加又は取り除いてはならない」を申命記と同じように解釈したなら、申命記後に書かれた聖句(本)はすべてその戒めを破っていることになり、価値がないということになります。しかし、そうなってしまっているかというとそうではありません。このジレンマに気がついたでしょうか。

もうひとつの解釈

黙示録の中のヨハネの警告は黙示録にのみ当てはまります。モーセの警告は申命記にのみ当てはまります。実は、ヨハネがこの聖典を書いた頃、新約聖書の中の本は、まだ書かれていませんでした。事実、わたしたちが知る聖書はまだ完成していませんでした。ですので、ヨハネの黙示録に追加することができるかというと、そうではありません。彼の聖句は、聖典の終止符を告げる拘束力のある宣言なのでしょうか?それは違います。

 

 2.聖書自体が聖書に含まれていない他の聖典について話している

これは、とても面白い話です。この聖書に載っていない他の本と予言者たちについての参照を見てみましょう。(旧約聖書から)

・「主の戦いの書」(民数記21:14)

・「ヤシャルの書」(ヨシュア10:13;サムエル1:18)

・「ソロモンの事績の書」(列王記上11:41)

・「先見者サムエルの書」(歴代志上29:29)

・「先見者ガドの書」(歴代志上29:29)

・「予言者ナタンの書」(歴代志上29:29;歴代志下9:29)

・「アヒヤの予言」(歴代志下9:29)

・「先見者イドの黙示」(歴代志下9:29)

・「予言者シマヤの書」(歴代志下12:15)

・「エヒウの書」(歴代志下20:34)

・「先見者の記録」(歴代志下33:19)

・「不品行な者たちとの交際」(コリント人への第一の手紙5:9)

・「啓示によっての奥儀」(エペソ人への手紙3:3)

・「ラオデキヤの教会への手紙」(コロサイ人への手紙4:16)

・「エノクの予言のユダへの手紙」(ユダの手紙1:14)

上記の本が聖書に載っていない理由はたくさんあります。間違いなく、いくつかの本はまだ発見されていないという理由です。そしてその他の本は破棄された、又は見落とされたかどちらかです。ひとつ明確になっているのは、他に記録されている予言者が聖書に載っている予言者たちと同じ時代に、他にも予言者とその記録が残されたものの、この66冊の本が集められた聖書には載っていないということです。

 

3.聖書が未来の予言者を予言している

聖書は、わたしたちが予言者と呼ぶ人たち(モーセ等)、もしくは少なくとも使徒(ヨハネ等)として予言した人々によって書かれた複数の本を集めて一冊にされたものです。それを念頭に置き、いくつかの聖典を見てみましょう。先ずアモス3:7を読んでみます。

「まことに主なる神は、そのしもべである予言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。」

この聖典から最低でも神が予言者たちに(物事を)明かしていることがわかります。予言者たちは神の言葉、目的、警告、戒め、そして教えを明かします。それでは主の来臨の前の末日について書いてある黙示録11:3を見てみます。

「そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ予言することを許そう。」

聖書が未来の予言者を、又は最低でも予言している人たちのことを予言しています。この未来の予言者の存在は、神がわたしたちにまだ伝えたいことがあるという証拠だと思いませんか?神の言葉は聖書のみではないというヒントがここに書かれてあるのではないでしょうか?

 

4.わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある

聖書は、キリストの古代中東の人々との関わりについて書かれています。しかし、彼がその他の人々を訪ねたのでは、と思ったことはありませんか?もしそうだとしたら、その人々も同じようにその経験を記録するのではないでしょうか。
おそらく彼は他の人々も訪ねたかもしれません。
ヨハネによる福音書10:14-16において、主はこう言われています。

「わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
それはちょうど父がわたしを知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなるであろう。」

ここで、いくつかのことが明らかになります。先ず、明らかにここでは羊のことを話しているのではなく、人のことを話しています。次に、キリストは彼の福音をまだ知らない人々に福音を伝えようとします。素晴らしいことです。他の全ての聖典のように、この部分は色々な解釈をすることができます。わたしたちと同じ信仰を持たない人たちはんもちろん、この聖典に対してわたしたちと違う解釈をしているでしょう。しかしわたしたちモルモン教徒は、キリストがアメリカ大陸を訪ねられたと信じています。
誰を訪れられたのでしょうか?
このモルモン書の部分にとても興味深い話があります。(キリストが復活された後、アメリカ大陸を訪れた話が書いてあります。)

ーまことに、あなたがたに言う。『わたしには、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らもわたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、一人の羊飼いとなるであろう』ー

しかしその聖句はそこで終わりません。モルモン書でも主は再びこう言っています。

ーまことに、まことに、あなたがたに言う。わたしには、この地におらず、エルサレムの地にもおらず、またわたしがこれまでに行って教え導いた周囲の地のどこにもいない他の羊がいる。
わたしの言うその羊は、まだわたしの声を聞いたことがなく、またわたしも彼らに自分自身を現したことはない。
しかし、わたしは彼らのところへ行って、彼らがわたしの声を聞いて、わつぃの羊の中に数えられるようにし、一つの群れ、一人の羊飼いとなるようにすることを、父から命じられた。だから、わたしは行って彼らにわたし自身を現す。-

つまり、(未だ明かされていない)これから明かされるであろう聖句をも受け入れるということです。

この記事はもともとDavid Snell によって書かれ、Mormonhub.comに投稿されました。

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Mami

日本チームマネジャーモアグッド財団
真実さんはブリガム・ヤング大学ハワイ校で英語を学びました。ユタ州立大学では音楽療法を学び、音楽療法士の資格を取りました。広島伝道部で18か月伝道しました。料理やダンス、音楽演奏などに取り組むことが好きです。子育てと畑仕事も頑張っています。