宣教師からレッスンを受ける男性

様々な聖句で、盲目は不信仰を象徴し、示現は比喩的にまたは文字どおりに、啓示を受けることを表現する言葉です。教義と聖約では、「…目は、光と知識の表れである」と教えています(教義と聖約77:4)。


ひたすら目を向ける

聖典でよく使われる聖句に、「Having an eye single to the glory of God(神の栄光にひたすら目を向ける)」というものがあります。「Single(注:日本語訳の聖典では「ひたすら」と訳されていますが、英語では「唯一の」または「たった一つの」といった意味があります)」という単語は、聖典に12回使われています。そのうちの10ヶ所 は、目をどこに向けるべきかについて、もうひとつは心をどこに向けるべきかについて説いています。この聖句は、イエスさまが教えられた山上の垂訓の中に出てきます。地上よりも天に宝をたくわえ、富ではなく神に仕えるようにと教えられたイエスさまは次のように言われました。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいであろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」(マタイ6:22-23)。

この表現法は、よく引用される教義と聖約の聖句でも見ることができます。「神の栄光にひたすら目を向けて、信仰、希望、慈愛、愛を持つ者には、その業に携わる資格がある」(教義と聖約4:5)。聖典をよく読む人たちは、この聖句を目にしたことがあることでしょう。

しかしわたしたちは、その意味について考えたことがあるでしょうか?なぜそのような独特な表現が使われているのでしょうか?

ある日、この聖句がページから飛び出してくるような感覚を感じました。わたしは毎日のように、視力に問題がある患者たちを診ていますが、わたしの医学の知識と聖典の概念を結びつけることなど考えたこともありませんでした。これまでわたしは、この聖句は根本的に、独善と個人的な名誉を得ようとすることへの警告だと考えていました。しかし、この聖句についてよく考えるにつれ、この言い回しにはいくつかの意味があることに気づきました。以下で、視力の問題はどのように福音と関連があるかについて、2つの例を上げています。


1. どちらの画像が本物か?

単一視(single vision)がいかに大切かを説明するために、まず複視について探っていきたいと思います。

画像の混乱は、複視の主要な問題です。二重像が問題なのではなく、二つの画像が重なって見えるため、本物がどういうものであるかが分からなくなることが問題です。例えば、患者たちからよく聞く症状で、運転中に2台の車が見えるため、どちらの車が本物か分からないと言います。もちろん、両方の車は「実在する」のです。これは単に、どちらの車がどの画像に属するかという問題なのです。

このことと、イエス・キリストの福音はどう関係するのでしょうか?

正しいことを行うことに焦点を当てるときに、もしわたしたちの視覚が二重に見えるならば、わたしたちは混乱します。山上の垂訓で、イエスは、神と富の二人の主人に仕えることについて話されました。もしわたしたちの焦点が一つでないならば、優先順位のつけ方が分からなくなり、世俗的なことが、密かにわたしたちの真正面に姿を表します。

モルモン書には、霊的な「複視」のせいで焦点を見失い、優先順位が混乱した人や国家の話がいくつもあります。

邪悪なノア王の民の話は、教訓的な例です。彼らは正しい人々でしたが、聖典の言葉で「偶像を礼拝する」民になりました。何が起きたのでしょうか?彼らの邪悪な指導者たちは、人々の目の前に世俗的なものを置くと、人々は優先順位を混乱し始めました。彼らは、それでも神をまだ信じており、自分自身のことをおそらく正しい人と考えていました。しかし彼らは、イエス・キリストの真の弟子とはどういうものかが分からなくなっていったのです。

わたしたちは、一番大切な戒めと十戒の最初の戒めである、「あなたの神である主を愛し、ほかに何ものをも神としてはならない」ことを覚えておく必要があります。

2013年10月の総大会で、オークス長老は「ほかに何ものをも神としてはならない」のお話の中で、優先順位について以下のように説明されました。

「では今日、人が、場合によっては信仰心の篤い人でも、神を差し置いて『仕え』る、ほかの優先順位にはどのようなものがあるでしょうか。次のようなものの可能性について考えてみましょう。どれもわたしたちの世界には普通のものです。

  • 文化的な伝統や家族の伝統
  • 政治的公正
  • 出世願望
  • 物の所有
  • 娯楽の追求
  • 権力、名声、地位

こうした例がわたしたちの中のだれ一人にも当てはまらないようなら、当てはまりそうな例をほかにも挙げられるでしょう。原則は、個々の例よりもはるかに大切です。原則は、わたしたちにはほかに優先するものがあるかどうかではありません。…提示している問いかけは、『わたしたちの究極の優先順位は何か』ということなのです。わたしたちが礼拝していると公言している神よりも上に、ほかの優先事項やほかの神々を置いて、仕えてはいないだろうか、もしわたしを愛するなら、戒めを守るべきであると教えられた救い主に従うことを忘れてはいないだろうか、ということなのです(ヨハネ14:15)。もしそうなら、わたしたちの優先順位は、霊的な無関心やわたしたちの時代にはびこっている無節制な欲望によって、まったく逆転していることになるのです。」

ウークトドルフ管長は、2010年10月の総大会の自身のお話、「最も大切な事柄について」の中で次のように言われました。「多くの声や選びの中にあって、ガリラヤの謙遜な御方は両手を広げて立ち、待っておられます。『わたしに従ってきなさい』という簡潔なメッセージを、大音量のマイクを使うことなく、静かな細い声で語っておられます。しかし、その基本的な福音のメッセージは、四方から押し寄せる情報の洪水に、いとも簡単に流されてしまいます。」

聖典がわたしたちに、神の栄光にひたすら目を向けるよう教えるときに、わたしたちに画像の混乱に気をつけるよう教えているのです。つまり、常に神を念頭におき、その究極の優先順位とそのほかの何ものをも重ならないようにする必要があります。


2. 判断力を失う

複視と関係する別の問題は、奥行き知覚の損失です。わたしたちの両目が共に働くことにより、多くの場合複視によって失われた3次元の情報をいくつか得ます。

もしわたしたちが、永遠に続く事柄に焦点を当てるならば、世俗的な事柄について適切な見方をするのは簡単なはずです。しかしわたしたちが、ひたすら目を向けないのであれば、適切な見方を持ち続けるのは難しいでしょう。

アルマが、ギデオンの町で伝道をしていたときに、そこに住む人々は、ゼラヘムラの聖徒たちのように、優先順位の付け方に苦労していないことに気づきました。アルマは、ゼラヘムラの人々は最も重要なことに対する感覚である、物事全体をうまくとらえる見方を失っていることを指摘しました。「わたしは、あなたがたが同胞のようにひどい不信仰な状態にないことを確信している。わたしは、あなたがたが高慢な心で高ぶっていないことを確信している。まことに、あなたがたが富や俗世のむなしいものに執着していないことを、わたしは確信している。まことに、あなたがたが偶像を礼拝しておらず、まことの生ける神を礼拝していること…をわたしは確信している」(アルマ7:6)。

次にアルマは、人々にひたすら目を向けるよう教えています。彼は、主イエス・キリストの来臨と犠牲と、人々を救われる力について教え、証しています。アルマは、人々に物事の見方、あるいは福音への深い見識について教えました。

ほかの場所で、アルマは物事の見方の大切さを説明しています。彼は「神は、贖いの計画を人々に示された後、…戒めを彼らに与えられた」(アルマ12:32)と言いました。神は戒めを与えられる前に、贖いの計画を教えられたのです。神の計画を理解することは、戒めを守ることを理解する助けになります。わたしたちは、物事の見方に迷いが生じると、標準を守るのが難しくなります。


霊的な複視の原因

複視は、視覚系の何らかの欠陥により引き起こされます。眼球構造が変形したり、神経支配がアンバランスになり分離されます。このような眼球欠陥や眼筋の分離は、罪や抑えのきかない感情に似ているように見えます。そしてそれらは霊的な複視の原因となります。

オークス長老は、「もしそうなら、わたしたちの優先順位は、霊的な無関心やわたしたちの時代にはびこっている無節制な欲望によって、まったく逆転していることになるのです」と言われました。恐らく高慢は、霊的な複視へと導く最も一般的な病気でしょう。リーハイが見た命の木の示現で、命の木の所までたどり着き、ほかのどんな実よりも好ましい実を食べた人々は、「その実を味わった後にあの人々にあざけり笑われたので恥ずかしく思い、禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしま」いました(1ニーファイ8:28)。これらの人々は、霊的な複視に悩まされていました。暗黒の霧の中を切り抜けた彼らでしたが、木の所までたどり着き、大きく広々とした建物を目の前にすると、霊的な画像の混乱に陥りました。


神の栄光にひたすら目を向けられるようになる方法

わたしの経験から、複視のための治療方法は、何が悪いのか、そしてどれくらい悪いかによって、さまざまな選択肢があります。すべての治療方法の選択肢に共通するテーマは、医師は原因の診断を的確に行い、正しい治療を処方する必要があるということです。それぞれの治療には、患者からと医師の両方から提供されるものが必要になります。

霊的な複視には、癒し手であられるイエス・キリストが必要です。主は、正しい治療を処方されます。もし霊的な手術が必要であれば、主にはそれがおできになります。何も心配する必要はありません。モロナイは、わたしたちはキリストをとおして、霊的な視覚の不完全さを除去することができると教えています。

「まことに、キリストのもとに来て、キリストによって完全になりなさい。神の御心に添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み、勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば、神の恵みはあなたがたに十分であり、あなたがたは神の恵みにより、キリストによって完全になることができる」(モロナイ10:32)。

わたしは、霊的な複視に対して警告を付け加えるとともに、この聖句に同意します。わたしたちの生活を眺め、わたしたちの優先順位である視覚はどこに焦点を当てているのか調べてみましょう。神殿での礼拝や、永遠の目標をわたしたちに思い起こさせ、永遠の視点を持たせてくれるような霊的な経験を探し求めましょう。ときには、焦点を見失うことも必ずあることでしょう。そのため、わたしたちの医師であり救い主であられるイエスのもとに絶えず戻らなければなりません。わたしたちが、主の栄光とわたしたちの救いにひたすら目を向けることにより、主はわたしたちを癒すことができます。


この記事はもともとScott Haines, MD and Taylor Halverson, PhDによって書かれ、ldsliving.comに”
How My Work as a Doctor Transformed My Understanding of This Frequently Used Scripture Phrase”の題名で投稿されました。
日本語©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company | Englsih ©2018 LDS Living, A Division of Deseret Book Company

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スミス 寿子

スミス寿子さんは、横浜に生まれました。17歳のときに、ユタ州で一年交換留学生として過ごしました。その後、リックス・カレッジ(現在のBYUアイダホ)、BYUハワイで学び、最終的にBYUプロボで卒業しました。夫と4人の娘がいます。趣味は、編み物、料理です。特にヴィーガン料理に興味を持ち始めて色々試すことにはまっています。