笑顔の父親と子供3人が縦に座って並んでいる様子

写真提供:土屋アリッサ

わたしは今日、神の言葉を学ぶときにぶつかる障害に、どう対処することができるかについてお話ししたいと思います。

まずはたとえ話からしたいと思います。ここに乾いた状態のスポンジがあります。こちらには水の入った器があります。このスポンジを水の中に入れると、どうなるでしょうか。(乾いているスポンジを水に入れる)。よく水を吸収しましたね。このように、乾いた状態のスポンジは水をよく吸収することができます。逆に、乾いていない状態でも水に入れてみましょう。どうなるでしょうか。(水を含んだスポンジを水に入れる)。乾いていた時と違って、あまり吸収することができません。

もうお分かりかもしれませんが、このスポンジはわたしたちです。水は新しい知識や神様からの啓示などに例えることができます。 乾いた状態のスポンジのように、わたしたちは新しい知識や啓示を受けるための準備ができているでしょうか?それとも、水を含んでいて新しい知識や啓示を吸収できない状態にあるでしょうか?

最近の総大会で十二使徒のデール・G・レンランド長老は、メリー・ポピンズの言葉を引用しました。それは「すべてを知っている子供ほど教えにくい生徒はいない」という言葉です。加えて「次の段階には自分で対処しなければならない」と引用しました。

水を含んでいるスポンジは、次のような3つの状態を表していると考えられます。それは、「すべてを知っていると思い込んでいる状態」「生活のスケジュールが忙しすぎる状態」「精神的にも肉体的にも疲れ切っていて、いっぱいいっぱいな状態」です。このような状態への対処法を1つずつ見ていきましょう。

 

1. すべてを知っていると思い込んでいる状態

わたしたちは知識が豊富になると、学校や教会で学ぶことがつまらなく思えるかもしれません。このような状態にあるとき、わたしたちはほかの人の欠点にばかり目を向けてしまうことがあります。地元の教会の指導者や職場の人のやり方、あるいは学校の先生の教え方が気に入らないこともあると思います。こんなとき、どう対処したらいいでしょうか。欠点が見えるということ自体は悪いことではありません。しかし、わたしたちはその人たちを裁くだけにとどまってはいないでしょうか?わたしたちができるもっと良い選択は、彼らの持つ欠点を受け止め、自分がそれを補うために何ができるか考え、実行するという選択です。

例えば、ワード(地元の教会)の指導者や職場の人が得意でないことがあると気がついたら、自分の持っている立場を活かし、それをどう補うことができるか考え、実行することができます。 つまり裁くのではなく、サポートするということです。それは単にワードや仕事、学校にいる人に声をかけ、関心を示すことかもしれません。またはミニスタリングで担当している人や、支えを必要としている人とともに時間を過ごすことかもしれません。大管長会第一顧問のダリン・H・オークス管長は、前回の総大会でニール・A・マックスウェル長老の言葉を引用し、こう述べました。

「自分を変えるよりも、むしろ教会を変えようとする」人々から離れてください。わたしたちに変えることのできるのは自分自身のみです。

わたしたちはそれぞれ教会で自分にしかできない役割があります。ニーファイが教えた「人が存在するのは喜びを得るためである」という言葉にあるように、与えられた場所で自分の役割を見つけ、果たすときに喜びを感じることができます。そして、わたしたちがそれぞれ自分にしか果たせない役割を見つけ、果たすことによってビショップを始めとする教会の指導者をサポートすることができます。ほかの人を裁くのではなく、彼らの状況を理解し、サポート側に回るときに、真に「神の言葉に従う」ことができます。そうすることによってわたしたちの目が開かれ、今まで見えなかったことが見えるようになると約束します。

 

2. 生活のスケジュールが忙しすぎる状態

この状態は、言い換えると「神様や預言者から新しい知識を受けるスペースがない状態」です。ラッセル・M・ネルソン大管長は、前回の総大会で家庭での聖典学習の大切さについて話しました。これは、福音学習を日曜日の教会で教える責任を受けた教師に任せるのではなく、わたしたちそれぞれが教師となって、自分の家族に福音を教えるという責任を持つことだと感じます。わたしたちは自分たちの生活に、家庭での聖典学習の時間を取り入れているでしょうか?忙しくて、できていないという家庭も多いのではないでしょうか?始めるものの、第2ニーファイあたりでいつの間にか終わっている、なんてことはありませんか。また、やっていても子供たちがあまりにも話を聞かないので意味がないと思うことがあるかもしれません。

わたしが証できるのは、子供たちは聞いていないようで実は聞いているということです。我が家では、聖典学習の時に絵が描いてあるカードを使っています。先日はいちじくの木の例えについて学ぶ機会がありました。いちじくの葉が出るということは、夏が近づいているというしるし、という聖文のたとえ話です。面白いことに最近6歳になった息子は、「葉が出る」という言葉を聞いて真っ先に思ったのが、なぜか「もみじ」だったようで、聖典勉強の時間ずっと「もみじ、もみじ」と言っていました。その結果、うちの聖文勉強では「いちじく」のたとえ話が「もみじ」のたとえ話になってしまいました。つまり「もみじ」が赤くなると秋が近づいていることがわかるように、イエス様の来臨にもいろいろなしるしがあるという結論で話が終わったのです。

聖書がちょっと和風になった感じがします。どうして「もみじ」が思い浮かんだのかと考えていると、その日の朝、我が家でやっているキッズクラスで「もみじ」の歌を子供たちに教えたことを思い出しました。 小さい子に教えるということは非常に難しいことで、「もみじ」の歌を教えていた時は、実は息子はほかのことをしていて歌ってもいなかったのですが、何気に聞いていたのだと気づきました。もちろん「もみじ」の歌を子供に教えることは、福音学習には直接関係ありません。しかし、わたしたちが福音を子供に教える責任を持ち、福音を学習する時間と生活の中に啓示を受けるスペースを作り、それを続けて実行することは無駄ではないと証します。子供たちは、わたしたちの福音の勉強に対する態度を生活の中で感じ取っています。生活の優先順位を考え直し、ぜひ神様の言葉を学ぶ時間を生活に取り入れ、彼らのよい模範となりましょう。

 

3. 精神的にも肉体的にも疲れきっていて、いっぱいいっぱいな状態

わたしたちは疲れていたり、精神的に落ち込んでいるときに自分のことで頭が一杯になってしまうことがあります。そんなときはイエス・キリストが休まれたように、自分に必要な休息をとる必要があります。つまり、神の言葉に従うために休息をとるということです。誰であってもいつも仕事仕事、家事家事では気が疲れてしまいます。聖文にイエス様が一人になられることがあったと書かれているように、日々の責任から離れ、個人的な時間を持つことは、神の言葉に従うに当たって欠かせないことであるように思われます。

前回の総大会で十二使徒のD・トッド・クリストファーソン長老は、イエス様が「安定」の完全な模範であられると言いました。自分の信じていることに堅く確固として動かず、しっかりとした考えを持って神の言葉に従うには、まず精神的にも肉体的にもそれができる状態でいる必要があります。神様との関係を保ち、精神的にも肉体的にも安定した状態を保つ努力をすることによって、周りの人の状況も考えられるスペースを自分の中に作ることができます。真の意味で、相手の話を聞き、相手の状況を理解しようとすることができます。

わたしの妻は子育てのほかに写真の仕事をしていますが、彼女と話すことによって写真家の仕事がどれほど大変なのか、最近少し理解できるようになってきました。写真家を雇うのにお金を払うなんてと思う人もいるかもしれませんが、写真家の仕事は写真を撮るだけではありません。クライアントと事前に連絡を取り、どのような写真を撮るか綿密に計画を立てる必要があります。そして結婚式や披露宴の写真は、多い時は1,000枚以上あり、その写真の中から選び、編集するという作業があります。子供が起きている時は仕事がはかどらないので、結局、子供が夜寝た後にやることが多く、夜中の2時3時まで起きて作業していることもあります。このような日が続くと、なかなか家事もできません。

このような状況を知らずに片付いていない部屋を見ると、ついついイラッとしてしまうこともありましたが、彼女と話し、状況を理解することによって、もっとサポートしたいという気持ちを持つことができるようになってきました。そうするためには、自分も肉体的、精神的な面で安定した状態でいる必要があります。なので、最近はわたしも運動をしたり、休める時はベッドで寝ながら、好きなドラマを見たりゲームをしたりする自分の時間を大切にするようになりました。もちろん、やりすぎはいけませんが、余裕を持てるように休むことによって周りにもっと目を向けられるようになり、もっと喜びを持って神の言葉に従うことができるようになると証します。

わたしはこれらのことを実行することによって、わたしたちが神様の言葉にもっと従うことができるようになると証します。

この記事は、土屋伸介兄弟が聖餐会でお話したものです。

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