貸していた我が家の地下の部屋に、熱心にわたしと同じ教会に通う20歳の皮肉をよく言う男性が住んでいたことがあります。彼にはいたずら好きの奇妙な癖があり、わたしにはユーモアのセンスが一切ありませんでした。彼の間合いは完璧でわたしは常に最悪のタイミングで彼のジョークの被害にあっていました。そして、彼はとても幼稚でした。わたしは次第に彼の「才能」を嫌うようになりました。わたし自身を清めるために赦すことを学ぶ必要がありました。
赦しについて考える
ある時まんまと彼のいたずらにひっかかり、最悪の一日となり腹を立てたわたしは、彼にむかって「もう、あなたを一生赦さない!」と怒鳴ったことを覚えています。それに対して彼は、「いいや、赦してくれるよ。天国に行きたければ赦さなきゃいけないもの。」と答えました。それからその日一日中怒りがおさまりませんでした。それは、彼のいたずらにまたしてもまんまと引っかかったからではなく、彼の返答の中に真実が混じっていたからでした。赦しは、加害者を赦すのではなく、被害者を清めるものです。主の御前に立つことを望むならば、わたしたちは清くなる必要があります。赦す必要があります。わたしにはまだまだすることがたくさんありました。
先週わたしはモルモン教の観点から、チャールズ・ディケンズによる小説「クリスマス・キャロル」が元となるミュージカル「スクルージ」を分析しました。わたしは自問しました。「人は本当に変わることができるのだろうか?」答えは、変化の過程をイエス様が導いてくださるように努力するならば、あたりに響き渡るような「はい!」というものでした。わたしたちには、それぞれ、スクルージのようにわたしたちを傷つけた人がいます。それが、単にいたずら好きでいらいらさせるような人であれ、仲違いした伴侶やひどい上司、暴力的もしくは無頓着な親戚といった、より破壊的な人であれ、彼らに科される彼らのとった行動の重さと同様、わたしたちにも、彼らを赦す責任が重くのしかかるのです。わたしたちは、赦すことを無視して、どのように清くなることができるでしょうか?そして、痛みを感じているのにどのように赦すことができるでしょうか?ひと呼吸置いて、赦しの過程を振り返ってみましょう。
赦しの過程
赦しという行動は勘違いされがちです。それはきっと誰かを赦す必要があるときというのは、大抵まだその人の行動に対する傷ついた気持ちに怒りを抱いているからです。わたしたちの思いが、怒りと痛みによる、曇り、乱れた感情という重荷を背負っているかぎり、赦しを始めるのは不可能でしょう。一歩下がって、赦しとは何か思い出してみましょう。
人を赦すことは,人の感情を害する悪い行いを承認することではない。それは天の御父の助けにより,自分を傷つけた人に対する怒りや憎しみの心を清め,傷つけられたことについてくよくよ考えるのをやめ,平安を感じることができるようになるということである。この赦しの過程は必ずしもたやすく,またすぐに済ませられる種類のものではないが,赦そうと努力するならば,天の御父はわたしたちを助けてくださる。(昇栄への備え:教師手引き,1998,197-202)
誰かに本当に傷つけられたとき、この定義をおさらいします。赦しは善くない行いをした人の責任をなくすことではないというのを覚えておくのは大変助けになります。それらの責任は、彼ら自身が主とともに、主の時に従って直面するものです。赦しはわたしのためのものです。自分自身のための赦しの過程で、相手に関しての嫌な思いを根に持つのは危険なことです。怒りと痛みという感情の毒は、わたしの魂を破壊するために、危険という言葉をつかいました。わたしの魂こそ、最も癒しの必要なものだからです。相手の罪と、怒りの気持ちを抱き続けるというわたしの罪を別々のものとして見る必要があります。そして主が喜んでしてくださる申し出を受け、主とともに歩みをすすめる必要があります。それが第一の段階です。キリストは自ら、わたしたちとともに歩んでくださると言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28−30)
「もしわたしたちが怒りや憎しみ,復讐心を抱くなら,聖霊の導きを受けるという祝福を捨てることになる。人を赦さないならば,生活の中に敵対する者,すなわちサタンの霊を招くことになり,その結果,昇栄に至る進歩を自ら制限することになる。イエス・キリストの模範に従って真心から人を赦すことにより,生活の中に聖霊を招くことができる。」(昇栄への備え:教師用手引き,1998,197-202)
わたしは末日聖徒として、聖霊とは、何か正しいことを聞いたときや、わたしが善いことを口にする時に訪れる、小さく静かな平安の気持ち、また思いと心を明確にするものだと認識しています。それを良心と呼ぶ人もいますが、教会員はその気持ちには神聖な出所があると認識します。誰にでも、それを感じられるよう訓練することができますが、それは時間と努力のいることです。以下の言葉にもあるように、それは、イエス・キリストの模範に従うことによって可能になります。十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老は次のように言いました。
「赦しはひどい傷を癒します。主の愛によって心の中の憎しみの毒が消されるからです。復讐の思いをなくしてくれます。主の清めと癒しと愛が取ってかわるのです。」(聖徒の道1992年7月号p37)
わたしたちはそれぞれのゲツセマネの園体験をしますが、他の人が乗り越えた経験の模範からも学ぶことができます。H・バーク・ピーターソンビショップは末日聖徒イエス・キリスト教会の管理ビショップリック第一顧問だった時に総大会でこの話をしました。
「第二次世界大戦が行われている間、「人間の人間に対する非情さ」の著しい例が、至る所で見られました。戦争が終わりを告げ、捕虜収容所が解放されると、心の弱い人々や衰弱しきった生存者たちの顔には深い憎しみが影を落としていました。ある収容所の監視官が、温和な顔つきをした、たくましそうなひとりのポーランド人を見て、つい最近収容されたばかりだったのだろうと思いました。しかし、彼が6年にわたって収容されていたことを知らされて驚きました。そこで、おそらくほとんどの収容者たちの家族が受けた恐ろしい残虐な扱いを、彼の場合は受けなかったのだろうと考えました。そこで彼に事情を尋ねると、意外なことがわかりました。兵士たちが街に侵入し、彼の妻とふたりの娘、そしてまだ幼い3人の息子たちを壁に向かって並ばせ、マシンガンで銃殺したのです。彼も家族と一緒に死なせて欲しいと請うたのですが、彼の持っていた知識と翻訳力のために、生かしておかれたのでした。
このポーランド人の父親は、次のように語りました。『そのときわたしは、兵士たちを、憎むべきかどうか決断しなければならなかったのです。しかし、それは私にとっては容易な決断でした。私は弁護士だったからです。仕事の中で、私は憎しみというものが、人の心身にどんな影響をもたらすか、わかっていました。そして、この憎しみこそが、わたしにとってこの世で最もかけがえのない6人を殺したのです。そのとき私は、残された生涯、たとえそれが数日であれ、何年であれ、私に対してこのような悲しい、つらい思いをさせた人々とは反対の道を歩こうと決心しました。私は、人と出会うごとに愛することを学びました。』」(George G. Ritchie and Elizabeth Sherril, Return from Tomorrow, Waco Texas: Chosen Books, p.116, 聖徒の道1984年1月号p.103)
憎しみの影響を見て、二度とその憎しみの餌食にはならないと決断するのは勇気に満ちた心が必要です。第二次世界大戦中のオリンピック選手で、米軍の飛行機が太平洋に不時着したのち日本軍の捕虜とされたルイス・ザンペリーニの実話は憎しみを乗り越えた人の物語です。彼が本当に変わったのは、収容所から解放されて何年も後、自分の人生におけるキリストの役割を理解したときでした。それが、彼が赦せるようになったターニングポイントだったそうです。
十二使徒として奉仕していた頃にゴードン・B・ヒンクレー長老は、こう言いました。「悪い感情を抱いていると平安はありません。また、古傷の痛みをあれこれ思い出すところに平安はありません。平安は悔い改め、赦すことによって初めて得られるものなのです。これこそキリストから来る平安です。キリストはこのように言っておられます。『平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:9)」(聖徒の道1981年4月号p.114)
憎しみの重荷をこれ以上背負い続ける必要はあるでしょうか?腕を休め、違う方法を試してみてはどうでしょうか?あなたは、怒りという重りを捨て、赦しによって高められ、御元へと導かれることによってもたらされる慰めと平安が与えられるにふさわしいのです。
この記事はもともとTerrie Lynn Bittenerによって書かれ、ldsblogs.comに投稿されました。
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