人型

写真はlds.orgより

物心ついた頃から、私はいつも何かに溶け込みたいと思っていました。小学校では、先生たちは学期の始まる日に私の名前のことでいろいろ言うので、私はひそかに自分の名前がもっと「普通」で読み易かったら良かったのに、と思いました。中学では皆ブランドものの服や靴をはくようになっても私はまだ母が一番安いディスカウントストアで買ったものを着こなしていました。私はもっとうちにお金があれば良かったのに、と思いました。(そうすれば友達ができると思っていたからです。)高校では人気のある子の外見は決まっていて(私みたいに肌が茶色くなく)、行動も(教会ではしないように教えられたことを)しているように思え、自分が仲間はずれのように感じました。

仲間意識への思いは現実のものであり、それは小学校や青春時代だけでなく、少数派となってからも変わりません。それが自分の外見、信条、宗教、結婚、収入、性別(リストが果てしなく続きます)であろうと、私たちは常に世間が普通あるいは受け入れられると定義したものに融和しようとします。私たちは調和し、仲間となる道がありますが、そうでないと仲間はずれになってしまうと信じるようになりました。私たちはのけ者です。それは学校でも近所でもあることです。そして悲しいことにあまりにも多く教会の中でも、信徒の中でもあることなのです。

教会で自分の隣に派手に入れ墨を入れた人が座っていたら、最初に思うことは何ですか?妊娠した未婚の母が扶助協会の後ろの列に一人で座っていたら、どうしますか?息子の一人が最近ゲイであることを告白した家族のことをどのように話しますか?

 

「互いに愛し合う」ことをさらに心して始める

私は観察者であり、物静かな方で、めったに自己主張することはありませんが、周りの人のことは注意して見ています。私は教会でもこのようなシナリオが実際にあったのを目にしてきました。そして教会員の対応は常に良いものとは言えませんでした。実際、対応の中にはとても批判的なものや傷つけるものがあり、前述した後ろの席に座っていたような人々の中にはもう教会の活発な会員ではなくなった人も多くいます。彼らは教会が自分たちの居場所のように感じませんでした。末日聖徒イエス・キリスト教会には自分の居場所があるとは感じられませんでした。

何と恥ずべきことでしょう。私たちはこの「互いに愛し合う」ことをもっと始めないといけません。

親として、子供が溶け込むのかどうか、外見、信条あるいは行動からからかわれたり、無視されたりするのだろうかと心配してきました。そのためビデオ「私の場所がありますか」(現在英語のみ)というD・トッド・クリストファーソン長老のメッセージに非常な慰めを感じました。

私はクリストファーソン長老が私たちは皆、いるべき場所にいなければならないという必要をどのように立証しているかが好きです。彼は人のせいで自分は必要とされない、あるいは愛されていないと感じさせる時があるということを片付けてしまいませんでした。それよりも長老は私たちの帰属感への思いを満たす方法について違いを生み出す改善策について分かち合ってくれました。彼は次のようにいいました。自分の価値やそこに自分の居場所があるかどうかについて自問するようになったら、このことを忘れないでください。

「イエス・キリストは私のために死んでくださった。イエス・キリストは私のためにご自分の血を流す価値があると思われた。そして主は私を愛してくださる。」

そうです。これは私が忘れてはならないことです。これが子供たちに自分が何者であり、そしてどなたにお仕えする価値があるかを教えるべきことなのです。これは私が誰か自分と違う人を見て、どう対応したら良いか分からない時に覚えておくべきことなのです。イエスはその人々を自分の血を流す価値のある人々だと思われました。イエスは私のことをご自分の血を流す価値がある者だと思われました。私たち皆は文字通り主のものです。なぜなら主はゲッセマネで、そして十字架上で私たちのために代価を払われたからです。

クリストファーソン長老がビデオでお話しされたように、私たちの救い主は私たち皆に希望を抱いておられ、私たちをより良い人にすることがおできになります。主の力は私たちを変えることができます。主は私たちの文字通りの救い主となることを選ばれました。そのように主を受け入れ、主の王国、主の教会で居場所を持つことを選び、主の愛の御腕に抱かれるかは私たちにかかっています。

持てるものすべてをもって神を愛してください。そして自分自身のように「あなたの隣人を愛してください。」これらはイエスがこの地上におられた時にご自身により与えられた二つの偉大な戒めです。

私は「自分自身」は私の子供、夫、両親、姉妹たちだと考えています。彼らは文字通り私の一部であり、彼らのためなら何でもできます。彼らを愛しているからです。そして、それはこの世で「隣人」としてまず見る必要があります。私たちは誰も完全ではありません。家族の誰も完璧な型にはまるわけではありません。私たちは皆何かからのけ者にされることだってあります。ですから共感と思いやりを持って、イエスが教えられたように、「最初に石を投げる」者にはならないようにしましょう。私たちの不完全さは、救い主に目を向け、主と一致する機会となり、自分が愛され、価値があると認められ、必要とされるようにいつもしてくれるものや誰かに帰属したいという思いを与えてくれます。

確かに、外見、信条や行動から子供はいつかからかわれ、無視されるかもしれません。確かに教会の人は人の感情を傷つけ、もう戻りたくないと思うようなことを言うかもしれません。でもこのようなシナリオの中でも自分たちがどなたにつき、イエスが私のためにご自分の血を流されるのにふさわしいと思われるものを私たちが忘れないなら、主は私たちに正しくない裁きを断ち切り、主の愛ある御腕に抱かれるのを感じるでしょう。

私たちすべてにとって帰属感を持ちたいというのは現実のものです。そして私たち皆が、さらに「互いに愛し合う」ようになるなら、私たちは皆、神の永遠の愛の中ではいつも自分の居場所があるということを覚えていられるように助け合うことでしょう。

 

 

 

この記事は元々はによって書かれ、The Longing for Belongingの題名でlds.orgに投稿されました。

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Ayae

編集者モアグッド財団
トゥーラー彩恵はモアグッド財団のアカウントマネージャーとしてこのサイトの管理をしています。高校では交換留学でニュージーランド、短大をアメリカのハワイ、大学をユタで卒業。二十歳で末日聖徒イエス・キリスト教会に改宗し、クリスチャンとなり、広島、岡山、出雲で宣教師として奉仕活動をしました。趣味はハープ、おいしいものを食べること、自然の多いところに行くことです。

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