キリストの誕生のシーンを描いたランプ

写真はlds.orgより

毎年この時期に、クリスマス、救い主イエス・キリストの誕生を祝います。彼ほどの偉大な人生を送った人物は、この世に存在しません。

I. キリストの人生と使命

宗教に関係なく、この世の全地において、また歴史において、救い主の人生ほど多大な影響を与えた人物は存在しません。

彼以上に、その人の人生と教えのために、記念碑を建てられた人物も存在しません。記念碑には、その多くが100年以上の年月を費やし建築された、西ヨーロッパの景観に点在する壮大な大聖堂と、さらに最近では、全大陸と世界49カ国上の145以上のモルモン教の神殿が含まれます。

西欧諸国の偉大な美術と音楽は、イエス・キリストの誕生を祝い、主の人生と目的を描くことに専念されてきました。

彼の目的を果たすために、王国が建てられ倒されたと、当時の指導者たちは考えました。軍隊は行進し、世間知らずな者たちは海に出て、大陸を発見し定住するようになりました。

哲学者や神学者は、生涯をかけて救い主の教えを学んできました。影響力の中でも、主の教えは、個人の権利を尊び与え、霊感による慈愛、教育、および文化を持つ政治制度を発展させたことに疑いの余地はありません。

多くの人たちが人生をささげ、さらに重要なことに、多くは、イスラエルの神である主、エホバ、わたしたちの救い主であられるイエス・キリストを彼らの模範としました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長が「彼の無類の模範は、世界中の善良と平和のための最大の力になっています」と語られたのは大げさではないと、わたしは感じています。

救い主の使命は、わたしたちを死から救い、罪から救い、無知から救い出すことです。主はわたしたちに何を教えられたのでしょうか?そしてもっと重要なことに、わたしたちは何を学んできたのでしょうか?わたしたちが主の教えに従うときに、平安で豊かに暮らすことができます。その一方で、世界中のすべての不幸と悲しみは、事実上、主の教えに従わなかったことに帰することができます。

II. キリストが教えられたこと vs 教えられなかったこと

クリスマスは神の子の誕生を祝い、主の教えを思い出す時期でもあります。

イエスは、彼の時代の人々に何を教え、また何を教えなかったのでしょうか?この対比について深く考えてみてください。おそらく、わたしが約50年前に初めてこのことについて聞いたときに、衝撃を受けたように、みなさんも影響を受けることでしょう。

イエスは、彼の時代の人々に何を教えられたのでしょうか?主が教えられた人々は、ローマで奴隷となっていた人々でした。けれども主は、彼らがローマの束縛から逃れられるように、武術や活動を教えられませんでした。主は、民政の原則でさえ、人々に教えられませんでした。主は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われました(マタイ22:21)。

主がこの地上に生きておられた時代の社会では、多数の疾病により、幼児死亡率は高く、平均寿命は長くはありませんでした。主は健康の原則を教えられたでしょうか?当時、多くの人々は飢えに苦しんでいました。主は、農業や栄養の改善方法について、教えたでしょうか?世界中の人々は、主のメッセージを必要としていましたが、主はただ、イスラエルの家の迷い出た羊たちのために送られたと言われました。そして、主が人々に教えられたことは、個人の人生をどのように生きるべきかということでした。

主は人々に、柔和で謙遜であり、義に飢えかわいているようにと教えられました(マタイ5:5;23:12参照)。

敵を愛し、苦しめる者を祝福し、嫌う者のために良いことを行い、悪意を持ってあなたを利用し、迫害する者のために祈るよう教えられました(マタイ5:44参照)。

主は、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」と言われました(マタイ25:40)。

「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)「たとい人が全世界を儲けても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ16:26)と主は教えられました。

また主は、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイ6:19−21)と教えられました。

「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)。

「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」(マタイ20:27)。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:11−12)。

「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

最後に主は、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と宣言されました。

おそらく、わたしたちは、主が教えられなかった事柄と比較することによって、イエスの教えの重要性をもう少し理解することができます。主の時代に、自由、健康、および政治などの社会問題について話すことは、どれくらい重要だったであろうかと考えてみてください。このような問題について主が話された記録はどこにもありません。それは、主の使命ではなかったのです。代わりに主は、それぞれの人生をどのようにして、完全なものにすることができるかを教えられました。「あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は言われました(マタイ5:48)。

III. 宗教的 vs 世俗的クリスマス

この世で、わたしたちはイエスの道か、俗世の道のどちらかを選択しなければなりません。もちろん、わたしたちはさまざまな俗世の必要条件を満たさなければならないことを理解しています。それには日々の糧を得る必要があることや、教育やその他にもやらなければならないことはあるでしょう。しかしわたしたちは、救い主と主の教会がわたしたちに提供してくださる、永遠に関わることの最優先事項である、命のパンを決しておろそかにしてはなりません。すべての人類の救い主への礼拝と証を忘れてはいけません。

何世紀にもわたって、クリスマスは、イエス・キリストの誕生と主の御業の重要性を祝う日でした。しかし近年、キリストと彼の御業への関心は薄まり、宗教に関係のないものを祝う祝日となってきています。

前世紀からの傾向を考えるときに、救い主の誕生と使命を祝う宗教的行事は、キリストを中心とする行事から、膨大な数のプレゼントを交換する祝日へと変化しています。世俗的なプレゼントに焦点を当てることにより、徐々に、今ではほぼ圧倒的に、クリスマスの宗教的な要素は影が薄くなってしまいました。もし疑念を覚えるならば、現在のクリスマスとわたしたちやわたしたちの両親が子供だった頃のクリスマスとを比べてみてください。

ジェームズ・E・ファースト副管長は、このことに関して強く、次のように述べました。

「あの特別なクリスマスを思い出すとき、いちばん記憶に残っているのは、プレゼントについて考えなかったということです。手作りの手袋か、あるいはマフラーをもらったかもしれませんが、プレゼントのことは何も思い出せません。プレゼントは素晴らしいのですが、わたしたちの幸せに不可欠なものではないことが分かりました。あのときほど幸せだったことはありません。もらって大切にし、遊ぶことのできたプレゼントは何もありませんでした。でも、見ることができなくても感じることのできるすばらしいプレゼントがたくさんありました。限りない愛のプレゼントがありました。わたしたちは神から愛されていることを知っていました。わたしたちは皆、互いに愛し合っていました。プレゼントがないことを悲しくは思いませんでした。わたしたち全員に、こうしたすばらしいプレゼントがあったからです。自分たちが永続するあらゆるものに囲まれて存在し、その一部であるという思いは、すばらしい、確固とした気持ちを感じさせてくれました。わたしたちはほかのものを何も欲しいと思いませんでした。プレゼントがないことを決して悲しく思いませんでした。わたしは子ども時代のクリスマス以上に幸せなクリスマスを思い出すことができません。

わたしたちは皆、プレゼントの交換を楽しみます。しかし、物質的なプレゼントと心に感じるプレゼントには違いがあります。本当のプレゼントは自分自身なのかもしれません。心と思いの豊かさを分かち合うことです。つまり、店で買ったプレゼントよりももっと長続きし、はるかに偉大な価値のあるものを分かち合うことです」(リアホナ2001年12月号「贈り物のないクリスマス」)。

このように、過去と現在のクリスマスの対照的な特徴について、深く考えてみてください。現在では、どちらが優勢でしょうか?

  1. 救い主  vs  サンタ・クロース
  2. 礼拝   vs  消費
  3. 宗教的な集会に出席 vs フットボールの試合の観戦
  4. キリスト教のクリスマスの音楽 vs 『ホワイト・クリスマス』、『白いスノーマン』、『赤鼻のトナカイ』、『ジングルベル・ロック』などの歌謡曲

このようなすべての強い影響力を持つものは、社会に世俗主義を拡大し、多くの人々に愛されている飼い葉桶のシーンといった、よく知られている宗教的象徴を禁止する判決へと導きました。多くの公立学校は、クリスマスの時期に聖歌隊が神聖な賛美歌を歌うことを恐れます。「み使い空に」「さやかに星はきらめき」や「もろびと、こぞりて」は、確かに礼拝と喜びのキリスト教の歌であることは明白です。これらは、わたしたちの社会の非宗教的な勢力の攻撃性と訴訟の増加に敏感な法的権限や行政当局にとって、好ましくないのです。このようなことを言うことにより、わたしは、明らかに禁じられている、この国におけるキリスト教の公の確立を弁護するつもりはありません。わたしは、多くの国民の基本的価値観がますます多様化していることを尊重し、賛意を示します。しかし、西洋社会の基盤にある宗教的伝統の価値を公平かつ寛容に認めることを妨げるべきではありません。

IV. 移りゆくクリスマスの真意

わたしは、クリスマスの公的行事における法的規制に関して、講義をすることもできますが、わたしたち一人一人の個人の力の及ぶ範囲である課題に話を戻したいと思います。わたしは、個人のクリスマスの祝い方についてと、いかに外部の法的効力がクリスマスの祝い方に影響を与えたかについて、また関連するマスコミ報道がわたしたちの考えと態度を支配することについてに、注意を向けたいと思います。

今日のキリスト教徒は、個人的にどのようにクリスマスを祝っているでしょうか?

個人的なクリスマスの祝い方の一つの顕著な特徴は、郵便または電子的に送られるクリスマス・カードでしょう。わたしが若かったころのカードにはすべて、飼い葉桶の場面や賢者のような宗教的メッセージが描かれていました。またカードには、ベツレヘムの赤子、万物へ神からのプレゼント、またはわたしたちが祝う、救い主の誕生と使命をほめたためる言葉が書かれていたものです。

今日では、宗教的描写または宗教的メッセージが特色づけられたクリスマス・カードを探すのは困難なことです。この点を説明するために、わたしは、数年前にわたしのオフィスや自宅に届いたクリスマス・カードを分析してみました。それは膨大な量のカードで少ないサンプルで分析したのではありませんでした。と言っても、サンプルはわたしと同じ信仰を持つ教会の指導者や教会員から送られたものが主なので、宗教的描写やメッセージが含まれる傾向がありました。

わたしは、カードを3つのグループに分類しました。一つ目の分類は、公然とキリストを言及するものおよび/または救い主の誕生を思い起こす絵が描かれている伝統的なカードです。わたしが受け取ったカードのうち、たった24パーセントが伝統的なカードでした。二つ目の分類は、絵や描かれているものはまったく宗教的ではありませんが、この祝日の宗教的起源を示す挨拶の言葉「メリークリスマス」が書かれているカードです。この種のカードが一番多く、47パーセントを占めていました。最後の29パーセントを占める三つ目のグループは、キリストもクリスマスも触れられず、また宗教的なことはまったく描かれていないカードでした。これらのカードには、「シーズンズ・グリーティングズ(季節のご挨拶)」「ハッピー・ホリデー」「新年に平和を」「この季節に平安と素晴らしいことがありますように」といった言葉が書かれていました。中には、「地球の平和」や「信仰、希望、愛」といったとても素敵なものもいくつかありましたが、宗教を思わせる絵は何もありませんでした。

同様に、クリスマスのこの時期に、人々が口頭で交わす挨拶は、「メリークリスマス」でした。しかし今日では、おそらく「シーズンズ・グリーティングズ(季節のご挨拶)」や「ハッピー・ホリデー」がより一般的に使われるようになってきています。

V. キリストを感動と躍動と活力の源として生活の中に迎える

わたしたちは、時々、教会から名前を除名してほしいと頼む人たちの話を読むことがあります。ある人は、教会は彼らの必要を満たしてくれない、教会は彼らの日々の問題や望みを助けてくれないと言います。

このようなことを聞くと、わたしはヨハネ書6章に記録されている教えについて考えます。そこには、イエスが約5千人の群衆に、5つのパンと2匹の魚を与えられたことが書かれています。その日の終わりに、イエスは、ガリラヤ湖を船で渡って群衆から去って行こうとされましたが、多くの人々は船に乗り、イエスの後を追いました。群衆がイエスに追いつくと、主は、彼らの真意を喚起し、「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、…パンを食べて満腹したからである」(ヨハネ6:26)と言われました。つまり、群衆は、主のみが与えることができる類のないメッセージを受けるためではなく、彼らの日々の糧を与えてもらうために主を尋ねました。イエスは、次のように言われました。

「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである…。
…わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6:27、35)。

さらに聖典には、「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」と書かれています(ヨハネ6:66)。 イエスから去っていった人々は、主が彼らに与えられた霊的なパンと水を自らすすんで受けていませんでした。同様に、イエスの教えのように、この教会は、人々の今日必要なものや望みを与える代わりに、永遠に続く命を与えることに集中しているため、イエス・キリストの教会を離れる人々がいます。

キリストが与えてくださったプレゼントに勝るものは存在せず、それはわたしたち一人一人に与えられるものです。今年だけでなく、毎年、そのキリストからのプレゼントのためにクリスマスを祝うべきです。ここで、愛するニール・A・マックスウェル長老のお話を引用したいと思います。クリスマスのメッセージとして、長老は次のように言われました。

「季節のプレゼントと違って、神からのプレゼントは永遠であり、不朽です。クリスマスは、決して終わることがなく、ずっと続いていくものなのです。このような無限の賜物は、「無限の贖い」により可能になりました(2ニーファイ9:7;アルマ34:10−12)。「無限の贖い」なしに、万人に不死不滅は与えられず、神が与えることができる最高の賜物である永遠の命もありえません(D&C6:13;14:7)。

それと同時に、もしわたしたちが、日々の物事の中から永遠に続く物事を見極められないならば、それは嘆かわしいことです。中東の最初のクリスマスに、多くの人々は、自分たちが無関心であることを理解していませんでした。宿屋にはどこにも部屋がなかったという事実には、象徴される意味があります。ノアの時代の人々がそうであったように、主の誕生のときに、人々は忙しかったため、重要な出来事に無関心でした。そして主の再臨を前にする人々も忙しくしているならば、無関心でいることでしょう。」

末日聖徒は、他に類を見ず、一年を通してイエス・キリストの使命を祝う資格を得ています。わたしたちには、天父と御子を証する使命を持つ、聖霊の賜物があります(3ニーファイ16:6)。そのため、わたしたちには羊飼いのように証をする義務があります。「(羊飼いたちは)この子について(天使により)自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた」(ルカ2:17)。
わたしたちは、誰を探し求めるべきであり、またなぜそうするのかを知っています。わたしたちは、天父の子どもたちです。天父は、「人の不死不滅と永遠の命をもたらす事、これがわたしの業であり、わたしの栄光である」(モーセ1:39)と言われました。そして、旧約聖書のエホバであり、イスラエルの主、神であられるわたしたちの救い主は、その業の基本なのです。

数年前に、モンソン大管長は次のように話されました。

「わたしたちは、祈りの原則による助けと導きにより、イエスを個人的に探し求め始めるときに、わたしたちが探し求めるお方について、はっきりした概念を持つことが重要です。昔の羊飼いたちは、子どもであるイエスを探し求めました。しかし、わたしたちは、キリストであられるイエス、わたしたちの長兄、天父との仲歩者、贖い主、救いの創造者、御父とともに初めからおられた方、この世の罪を背負われた方、わたしたちが永遠に生きられるように自ら進んで死なれたお方を探し求めています。これが、わたしたちが探し求めるイエスなのです。」

ハワード・W・ハンター大管長は、謙遜に次のように言われました。

「キリストを感動と躍動と活力の源として生活の中に迎える人にほんとうのクリスマスはやって来ます。クリスマスの真の精神は主の生涯と使命の中に見いだすことができます」(リアホナ2005年12月号、「ほんとうのクリスマス」)。

わたしたちすべてが、主の人生に見習い、このクリスマスの時期に主の使命を祝うことができますように祈っています。イエス・キリストの御名により、アーメン。

この記事はもともとダリン・H・オークス長老のBYU管理組合のクリスマス・ディボーショナルでのお話であり、mormonnewsroom.orgTranscript: Elder Oaks Christmas Address to BYU Management Societyの題名で投稿されました。

 

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スミス 寿子

スミス寿子さんは、横浜に生まれました。17歳のときに、ユタ州で一年交換留学生として過ごしました。その後、リックス・カレッジ(現在のBYUアイダホ)、BYUハワイで学び、最終的にBYUプロボで卒業しました。夫と4人の娘がいます。趣味は、編み物、料理です。特にヴィーガン料理に興味を持ち始めて色々試すことにはまっています。
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