ある日イエスはさいせん箱に向かって座り、群衆が什分の一を投げ入れるのをご覧になっていました。金持ちの人は多くの献金をしました。多くの人はその献金の額に驚いていたことでしょう。しかし、救い主の注意を惹いたのはそのような豊かな人ではありませんでした。貧しいやもめで、レプタ二つを投げ入れただけでした。それは非常に小額です。
主は彼女に強く感銘し弟子たちがその人を見られるように招かれました。主は彼らにほかの人も多くを献金したが、彼女は持てるものすべてを捧げたと、彼女は豊かな人よりはるかに多くを与えたのだと説明しました。
聖書からやもめのレプタについての話を読む。
神が私たちがほどこすことについて評価なさる時、それが私たちに実際どれだけの犠牲を要求するかによって判断されます。聖書によると什分の一としてのふさわしい額は収入の十分の一ですが、裕福の人より貧しい人にとって難しい行為です。その理由でより多くの犠牲を払う人々に、神はより多くの祝福をもたらします。
聖書には次のように教えられています。
「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部を私の倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」(マラキ3:10)
ここで金銭について述べていないことに注目すべきです。聖書には什分の一を納めれば物質的な富が得られるとはどこにも約束されていません。神からの祝福はいろいろな形をとってきますし、その大部分は霊的なものです。ある人々は什分の一を納めることで奇跡的に経済的な祝福を受けますが、その他の多くの人々はその代わりに違った奇跡を受けます。
什分の一はもちろん神の教会を運営するために欠かせません。今日の世界の中では、教会堂を建て、設備を整えるためには資金が要ります。伝道活動を支えるには資金が要ります。貧しい人を助け、宗教的なプログラムのために必要な支援を与えるためにも資金が必要です。モルモンは教会での責任を果たすために給料を受けませんが、ビショップでさえ無報酬です、管理人や事務の人を雇う必要があります。
モルモンは什分の一を何に使うのでしょうか?
「什分の一」という言葉は10%という意味で、神が私たちが捧げることを求めている額です。そのお金が教会を支える一方、主にその会員を助けるために使われます。モルモン(末日聖徒イエス・キリスト教会の会員)は什分の一は私たちが信仰をもち、この世のことより霊的なことを優先させ、神に信頼することを助け、貪欲を避け、自立を促すと信じています。
モルモンは富の増加分(収入)に対して什分の一を納めますが、税込みかそうでないか、何を十分の一と考えるかなどについては本人の判断に任されます。彼らは収入の証明などを出すようには求められていません。彼らはとにかく什分の一を納め、年の終わりに自分が完全に納めているかどうかを申告します。什分の一は公表されません。モルモンは献金用紙に記入し、その会衆を指導する3人の指導者の誰かに手渡します。集会中に集金のための皿が回ってくることはありません。教会への献金は定期的に独立した監査機関によって監査されます。
イエスはしばしば福音のために進んで経済的な犠牲をするように教えました。新約聖書の中では金持ちの若者が救われるために必要なことは何かを尋ねました。イエスはいくつもの戒めについて尋ねましたが、その若者は既にそれらの事を守っていました。それで、イエスは彼に持てるものをすべて貧しい人々のために捧げるように言いました。それは彼が進んで行いたいと思っている以上のことだったので、去って行きます。今日イエスは私たちにすべてを捧げよとはおっしゃらないかもしれませんが、喜んで什分の一と捧げ物をすることは、この世のものと霊的なものに対する私たちの決意を表しています。
什分の一はまた神に信頼を置くように助けます。余分なお金があれば生活を改善できると思うので、中流階級の人でさえ収入の10パーセントを捧げるのは難しいと感ずるかもしれません。それでもそれを捧げるときに、神が生活の必需品を与えてくださることに信頼を寄せ、永遠の観点からより大事な事柄に注意を向けるようになるのです。やもめのレプタの教訓はその額ではなく、永遠の原則にどれほど強く決意しているかという点にあるのです。
Ayae
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